広沢虎造から考えるJ-POP史

昔は銭湯に入ると一人くらい、「旅ゆけば〜♪」と気持ちよく喉を鳴らしているおじさん、おじいさんがいたという。

このフレーズは浪曲の大名人、広沢虎造の十八番「清水次郎長」に出てくる定番フレーズ。ちなみに静岡清水出身であるさくらももこ氏の「ちびまるこちゃん」にも、まるこが冒頭のフレーズを口ずさむシーンがある。ちなみに、広沢虎造発の他の有名フレーズといえば、「馬鹿は死ななきゃ治らない」と、シブがき隊によってアップデートされた「寿司食いねえ」等がある(両方とも「森の石松と三十石船」に登場する)

 

今でも言い回しや言葉が残るほど、かつての広沢虎造の人気は絶大であったし、また浪曲の人気もものすごいもので、テレビが普及する戦後までは日本のエンターテインメントの頂点であった。ちなみに私は若手だと関西節の方が好みで、かつてケイコ先生で知られた春野恵子さんや真山隼人さんが好きです。

例えば、われわれが今の音楽を語る際、どうしても西洋音楽の輸入と咀嚼の方向から語ってしまいがちだが、実はそれでは捉えきれない部分があるのではないかと思う。

 

浪曲の語られにくさ

 

浪曲の歴史は他の話芸である落語、講談に比べて比較的浅い。発祥は江戸後期で、人気が勃興したのは明治期という新興演芸であった。また、圓朝の言文一致への影響や講談の語り本といった文学やジャーナリズムへの接近もあまりなく、節回しなどの「音楽的」な部分で聞かせることの多いことや、「浪花節」と言われるように義理や人情といったテーマが多い浪曲は、大衆的な人気が高くともいち早く近代システムを達成しようとしたインテリにはあまり評判が良くなかった。実際、夏目漱石や泉鏡花など文学者が浪曲嫌いを公言する発言は多く、おそらく彼らには浪曲がそれまでの日本にあった芸能である義太夫や説経節などの前近代のアマルガムのように映ったであろうことが想像できる。しかし一方で嫌いを公言しなければいけないほど世間ではウケていたということもそこからわかるだろう。文学者が浪曲に接近するのは、正岡容(桂米朝の師匠である!)が「天保水滸伝」を浪曲に翻案するといった昭和まで待たなければいけない。そして正岡が浪曲に興味を持ったのが、氏が女性関係のトラブルなどで関西に隠棲しているときに連れ添った詩人、金子光晴から薦められたことがきっかけだと言われている。

このように「言葉」で語られにくかった浪曲の、「音楽」的な要素を注目していくと、それは今の音楽にまで連綿と続くような系譜がある。ラジオという音声メディアの普及とともに全国に広まると、浪曲人気はそのまま義太夫のように素人が真似して歌う(浪曲では正しくは「唸る」というが)ものとなり、素人名人会なども多く催され、習う専門の学校なども作られた。これのおそらく前者がカラオケやのど自慢にまで通じる文化の系譜の一つであり、浪曲学校からはその後三波春夫や村田英雄など、今では「演歌」と言われる人物の大御所が輩出される。

 

虎造節の系譜

更に広沢虎造が独自に発展させていった「虎造節」と呼ばれる独特の歌い方も多くのフォロワーを生んでいく。

そのうちの代表的な一人があきれたぼういずの川田晴久(川田義雄)であろう。川田はギターを弾き語りながら虎造節を唸るという新機軸によって当時の演劇界で絶大な人気を得た。この時期はさながら三味線がギターという輸入楽器に移り変わっていく移行期と言ってもよく、バタやんこと田端義夫のギターの弾き方がどうみても三味線由来っぽかったりするのが面白い。そもそも三味線も江戸時代に入ってきた比較的新しい楽器である。

 

ここで余談ながら歴史の勉強として書き留めておくと、脊椎カリエスが悪化した晩年の川田を、当時所属していた吉本興業の吉本せい(連続テレビ小説「わろてんか」のモデルである)は治療代を払わずお払い箱にした。そして、他のファンであった興行師の懸命な治療が功を奏し、復帰公演を打とうとした際、吉本興業は川田は自分の事務所の所属だと言って訴え、公演の中止と川田に莫大な違約金を吹っかけたのだった。その際に仲介に立ったのが三代目山口組組長、田岡一雄であった。そこから川田は田岡に恩義を感じ、自分のかわいがっているまだ子供であった新人歌手を田岡に紹介することになる。それが、後の美空ひばりである。

   
また、虎造節を今最も引き継いでいる人物というと、山下達郎が挙げられるだろう。かつて上岡龍太郎が「今流行っている山下達郎のクリスマス・イブを聴いて、あ、これは浪曲やと思った」という言葉に対して山下は「バレたか」と言ったという。実際に広沢虎造を敬愛している氏の歌いまわしは、彼がルーツにしているブラックミュージックと比較するとたしかに違うもので、「蒼氓」などは広沢虎造と連続して聞くとたしかに浪曲としてしか聞こえなくなってしまうほどの影響を感じる。山下達郎の師匠といえば大滝詠一だが、どうしても海外の紹介と影響ばかり論じられがちで、氏の分母分子論に言われる右派的な言説は無視されがちであるように、山下のそれも軽視されがちである。いつかサンデーソングブックで「広沢虎造特集」をしてほしいものである。

  

このタイトルの元になっているimdkm氏「リズムから考えるJ-POP史」のイベントで氏も、この著書の執筆動機について「じつのところ、いままでほとんどのリスナーは声しか聴いてなかったのではないか」と答えていた。確かに、歌声と歌詞、場合によっては歌詞の内容すらよくわかっていないということも多々あるのではないか、と思うことは多々ある。しかし、それが一口に悪いというわけではない。それまでの譜面を通じてしか伝え得れなかった音楽に比べ、歌手特有の声や節回しや歌い方、そういった魅力に引き寄せられた時代こそ、録音芸術が確立した後のポップスという文化の「核」と言えるのかもしれないからだ。そしてその日本の最初期のスターは、広沢虎造であった。現にかつての人々がが「バカは死ななきゃ治らない〜」とあの節回しを聞き、口をついで歌うことと、今の我々が「ドルチェアンドガッパーナの香水のせいだよ〜」を聞き歌うことに、そう違いはないように思えるからだ。

最後に、このテキストを大滝詠一氏に捧げます。

 

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