tofubeats「FANTASY CLUB」

Reviewed by神野龍一

クラウドにある情報が雨になって落ちるとき、誰かにそっと傘を差し出すような

 

2017年の現在、日本のテレビでは大手携帯電話のCMでjustin bieberの歌う「what do you mean?」が流れ、今年TWICEがデビューする。2年前のヒット曲と2年前のアイドルが現れ、もしかして昨年、トランプ大統領は当選しなかったのではないか?とすら錯覚してしまうのだが、それもまたpost truthなのかもしれない。

 

現在の証券取引で「High Frequency Trading(HFT)」という売買方式が拡大しているのをご存知だろうか。これは、人の意思を介さない電子的な取引をアルゴリズムによって極度に高速に(High Frequency)やりとりを知ることで利益を得るプログラムだ。数万分の1秒の僅差を争うこの取引方式は、サーバーの位置をなるべく証券所の近くに置く、プログラムの実行速度を上げるためにCのようななるべく「原始的な」言語でプログラムを作る、というレベルで速度を争っているのだが、実際にするのは単純で「株が上がるという情報が出ると同時に売り、下がるという情報がでると同時に売る。取引が始まって終わるまでの間に済ます。」絶対に負けない「後出しジャンケン」のようなものだ。

 

現在では、「判断力の速さ」だけが優先されるのかもしれない。「で、要するに何?」と飛び込んできたものを瞬時に切り捨てる、もしくは取り入れる。それが「どういうもの」なのか、「いい」のか「悪い」のかといった価値判断などは単なるロスでしかない。無尽蔵に飛び込んでくる情報を捌く。見た瞬間に気に入れば右にスワイプ!嫌いなら左へ(あれ、逆だったかも?)。そんな行為をひたすら繰り返して、自分の欲望を上回る供給が与え続けられていると、自分がまるで情報を食べさせられ続けているガチョウのような気分になってくる。何も考えずにただ目を開いている時、自分の何かはフォアグラのように肥大化し、鈍感になっているのだろう。

 

そんな時、もしかしたらそういう行動をとることが、現在においては一番クレバーなのかもしれないと思う。ある出来事について、一つの流れができそうならそれに乗っかる。終わるまえにしたり顔でサッと引く。ある人への攻撃が始まり、誰かが石を投げ始めたら後ろから投げる。自分もそれをしているかも(間違いなくそうだろう)。もしそれで傷ついたり、よしんば殺したとしても、その石のどれが相手を殺したかはわからない。今の速度では届くころにはそこにはいないし、石を投げたことさえ忘れている。「で、要するに何?」その速度の中でpost truthは流されていく。

 

そんな景色がいたるところで散見される中、冒頭「CHANT#1」ではこう歌われる「これ以上は 気づかないでいい」しかしそれは逆説的だ。我々はすでにそれを知っているのだから。そして、それぞれ少なくともその行為に加担すらしている。できるのは、見て見ぬふりをすることくらいだけれども、それすら加担かもしれない。「SHOPPINGMALL」は「何かあるようで何もないな」という場所だけれども僕たちはそれを利用するし、もしそれがなくなってしまったら本当に何もなくなってしまうだけになってしまうからといった消極的な肯定性でしか語れないとしても。そういった問いをかけられたときに、瞬時に答えを出すのではなく、ふと立ち止まって考えること。それが重要なのかもしれない。

 

だからこそ、ほんの一時間でいい。時間を割いて聴いて欲しい。

みんな忙しいってことはわかってるし、世知辛いこともたくさんあるだろう。もう、新しいものを受け入れるのもこりごりかもしれない。自分の中にすでにあるものを繰り返し、補強して支えてくれるものだけを摂取して生きていきたい。もう何も持ちたくない。部屋だって狭いし、HDだって限界があるし、音楽や映像のサブスクリプションサービスはもうほとんど「所有しない」ことにお金を払っているようにすら感じる。それでもいい。サブスクリプションでもいい。tofubeatsの「FANTASY CLUB」を頭から最後まで全て通して聴いて欲しい。

 

できればなるべく、曲の頭だけをかけて飛ばし聴きなどをしないで欲しい。もちろんそういった編集権は所有したリスナーが持つべきだし、前作までのtofubeatsのアルバム「positive」「first album」「lost decade」はそうやって楽しめるようなバラエティとボリュームに富んだ作品だった。それまでのLPレコードからCDのコンパクト化に加えての「頭出しのしやすさ」はアルバムの評価方法〜ビートルズの名盤が「sgt.pepper」と「abbey road」から「revolver」と「ホワイトアルバム」になるような〜を変えるほどのパラダイムだったし、もはや今やsoundcloudの波形の変化を摘んで聴いて一曲のサマリーをつかむ、なんて聴き方すらしていることは知っている。だけど、今回だけは昔懐かしいレコードの「トータルアルバム」のように、時間をかけてじっくりと聴いて欲しい。たとえばヴァン・ダイク・パークスの「song cycle」みたいに。

 

一曲目「CHANT#1」オートチューンドゥーワップがスクリューされたところからつながる「SHOPPINGMALL」そこからビートの残響がつながってYOUNG JUJUのラップがfeatされた「LONELY NIGHTS」。その最後のフレーズからそのまま「CALLIN」の冒頭へつながっていく。

後半の「WHAT YOU GOT」からリプライズのフレーズがそのまま「THE CITY」の冒頭へ。そして最後、冒頭へ帰ってくる「CHANT#2」まで。

曲と曲をまたいでつながるフレーズや、展開の見事さに驚くだろう。そしておそらくそれには必然がある。それはこのアルバムが都市と都市のような「点」だけを高速で繋ぐ作品ではなく、その間に存在する郊外の街並みや、ハードオフがあるようなロードサイドの景色を描いた作品だからだ。discover of suburban.

 

ここでtofubeatsは繰り返し「わからなさ」を歌う。そしてそのわからなさを歌うことで、それらの距離を測ろうとする。即断せず、割り切らず、そして繰り返す。さまざまなリズムで、さまざまなメロディーで。

「CHANT#1」の低速スクリュー、そして「WHAT YOU GOT」の倍速。同じ楽曲の構成でも、BPMが変わるだけで「同じ曲」ではなくなる。それは同じ材料(卵、牛乳、砂糖)を使ってもプリンとカステラが違うもののように、しかし明確にではなくゆっくりと変化していく。例えばそれは殊更に情報量を増やし、BPMを上げ、情報圧縮しがちな現在のJ-POPに対する一つのアンチテーゼとしても聴けるかもしれない。

 

さらに「WHAT YOU GOT」では中間でリズムがtrapのリズムに変化する。楽曲が途中でtrapに代わるのは、「first album」での「CAND¥¥¥LAND」でも使われ、なおかつ最近ではbruno mars「24K magic」や韓国のHeize「shut up&groove feat.DEAN」でも使われた手法でもある。様々な解像度で見ること。そして「ここ」だけではなく外を見渡すこと。

 

Sugar Meをゲストボーカルへ迎えたスロウナンバー「YUUKI」から、少し毛色が変わって「BABY」へ。しかし、「BABY」も決してテーマからは離れていない。ここにあるのも、お互いの不理解を前提としたコミュニケーションであり、しかしそれを認め、信頼し、自分の重心を相手に少し預けるような、ささやかながら大事な一瞬の気持ちの動きを5分のポップソングに仕上げている。そしてこれは「lost decade」制作時のソングライティングのエポックメイキングとなった二曲「touch」「No.1」の二つの要素が重なり合った曲でもある。

正直なところ、自分はもっとこの「lost decade」前のtofubeatsの歩みを、もしメジャーの場でできていたら、と思うことがあった。サンプリングを脱し、楽曲構成や音の整理など、この時期のソングライティングの成長のプログレスを同時体験できた人たちが、自分の周り以外にももっと大勢いたら、と。しかし、それが杞憂に過ぎないことを本作を聞くことで反省した。過去を振り返るのではなく大事なのは「今、ここ」から自分を更新し続けること、作り続けることだ。「FANTASY CLUB」の示した一つの到達点は、それを自分に教えてくれた。

 

「OPEN YOUR HEART」はアルバムのインストナンバーの中でも、最もtofubeatsの、いやむしろdj newtownの作風を思い出させる楽曲だ。当時、J-POPや歌謡曲をサンプリング、エディットしながら制作された楽曲は、自分にまるでイカロスの姿を想起させた。郊外のニュータウンで制作された楽曲の、J-POP全盛期、90年代まではこの国にかつてあったはずの輝かしさ、明るさについての焦がれるほどの情熱。そこにオートチューンやサンプリングという「蝋の翼」を用いて手を伸ばしていく。近づいていくごとにその翼は焼かれてしまうことを知りつつも、身を焦がして手を伸ばしていく姿。それは、肉眼では見ることができないけれども、太陽に最も近い惑星である「水星」に至る一つの大きな軌道だった。

 

そして地元神戸の依頼を受けて「THIS CITY」人口増加を願って転調を繰り返して上昇していくメロディーや、8小節ごとに音色を変えていくこの楽曲に、かつてあった、tofubeatsの友人ある曲をフラッシュバックしてしまうのは、さすがに自分の思い込みが見せた景色かもしれない。それも一つの「post truth」として。

「わからない」のは「どちらでもない」のと同時に「どちらでもある」からだ。明確さに流れず、答えのない割り切れなさを抱えること。世界を分割しようとするナイフに抗い、無色の混沌とした存在である自分を受け入れること。それは長調でありながら短調でもあるような(ブルース!)、3拍子でありながら4拍子でもあるような(ファンク!)、男でありながら一方で女でもあるような(クラブミュージック!)混沌としたものを抱えながら生きていくこと。そしてポップミュージックはいつでも、マジョリティでありつつマイノリティーである人々のために奏でられてきた。このアルバムが、そういった心に何かを抱えた人にとって、寄り添いを与えるような作品になるだろう。

 

少し長く語ってしまった。「で、要するに何?」と言われたら、自分はこう答えるしかない。

「僕は今、『FANTASY CLUB』を聴いている」

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小沢健二「流動体について」を読み解く by神野龍一

2月22日にリリースされた小沢健二の新曲「流動体について」は発表されるやいなや多くの人を戸惑わせました。19年ぶり、前日youtubeで発表という突然のシングルリリース、CDのみの販売で配信なしというまるで90年台当時、NYへ飛び立った直後のようなスタイルでもって発表された新曲は、大きな歓待とオリコン2位という快挙を成し遂げつつ、多くのリスナーは未だにこの曲に対して困惑を続けているのではないのでしょうか。

しかし、小沢健二の音楽活動は昔からそうでした。アンファンテリブル(おそるべき子供たち)として現れたフリッパーズ・ギターを解散してからの沈黙、そしてソロ「犬は吠えるがキャラバンは進む」から現在に至るまで、リスナーを最初にビックリ戸惑わせ、しばらくしてからその意味がわかってくるという遅効性のインパクトを与え続けています。リリース時「今夜はブギーバック」が後々まで日本のある文化側面を代表する曲になるとだれが思っていたでしょう。2015年ceroの「obscure ride」がリリースされ、冒頭で「Contemporary Eclectic Replica Orchestra」という歌詞を聴いてようやく「ああ、小沢健二の2003年に出たアルバム『eclectic』はそういうことだったのか」というのが腑に落ちる。このタイムラグ、実に10年以上。しかしだからこそ未だに根強いファンがいるどころか、NYに旅立ってからほとんど目立った活動をしていなかったにもかかわらず、さらに新規のリスナーを獲得し続けているのでしょう。

今回はリリースされた本作について、小沢健二のリアルタイム世代ではない85年生まれ、決してそこまで小沢健二について詳しいわけではない筆者が、彼の活動およびその周辺などを眺めながら本作「流動体について」を読解するという仮説です。一体彼は本作で、何を言いたいのか?タイトルの「流動体」とは?「平行世界」とは?そしてなぜ「カルピス」を飲むのか?そして最後に彼はサイトで「裏切り」を口にしたのか。順を追って述べていきます。

楽曲について

歌詞の中のストーリーの概略はこうです。「1番:飛行機で羽田へと着陸し、音楽が流れ、その時もしも違う人生を選んでいたら?ということを思い浮かべる、そしてカルピスを飲む。2番:港区をドライブしながら昔の恋人の家の近くを通り、彼女を選んだ場合の人生を思う。そしてカルピスを飲む」(書いて思い出しましたが、一番は村上春樹の「ノルウェイの森」に似てますね。2番は東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」っぽさもあります)

シンプルな8ビートのリズムのドラムを下敷きにしたロックンロールのビートで作られたこの曲は、2016年のライブツアーで発表されたのを聴いたときの印象は正直、「発表された他の曲に比べてシンプルで随分地味だなあ」というものでした。しかし、CDを購入し、流麗なストリングスが付いた本作を聴くと、本作が小沢健二のソフトランディングのための楽曲だったということがわかり、印象が一転しました。イントロのストリングスはまさに、小沢健二が最後にリリースした楽曲「ある光」(厳密にはラストシングルは「春にして君を想う」ですが当作にもカップリングとして「ある光」が収録されています)の続編であり、「ある光」が日本をテイク・オフし「JFKを追」ってNYへと飛び立つことを歌った歌であったことに対し、こちらは羽田へ上陸した、つまり堂々とした帰還宣言をした楽曲だということです。それではこの曲について踏み込んでいきましょう。

タイトル「流動体について」とは?小沢健二の過去作から

はたして「流動体」とはなんでしょうか。デジタル大辞林には「流体」の同意語として「外力に対して容易に形を変える性質のもの」とあります。この変化するもの、変化しうるものというテーマは常に小沢健二が歌う基本テーマになっており、ソロデビュー作「犬は吠えるがキャラバンは進む」のセルフライナーノーツ(現在は削除され「dogs」と改題)でも同じようなことを言及されています。

まず僕が思っていたのは、熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。

おそらく「流動体」とは、そういった「一定でいれないもの、変わらずにはいられないもの」を指し示したもの、そしてそれは時間によって影響されてしまうすべてのこと。また、福岡伸一が「生物と無生物のあいだ」で語ったような「動的均衡」、食べたものの分子を取り込みながら細胞を刷新し、常に変化しながら、変化するという形で残り続ける生命活動そのもの、つまり「自分の生(まさにLife!)」であろうと僕は考えます。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし(方丈記)の無常観。「ユースの終わりを痛みとともに」知っていた小沢健二はそれこそデビュー当時から、自身の変化についての痛みを唄い続けていました。フリッパーズ時代は「抗い」として。そしてソロ以降は「肯定」として。タモリが激賞したことでも知られる「さよならなんて云えないよ」のフレーズは、ランボーの「見たんだ!何を?永遠を!海に溶けていく太陽!」にも似た瞬間瞬間の輝きへの肯定と、それが離れていくことの痛みを捉えた名フレーズだと思います。

「平行世界」とは?周辺関係から読み解く

果たして、「平行世界」とはなにか?それを本作に参加しているミュージシャン、その周辺の関係から読み解いてみましょう。本作には、コーラスとしてハナレグミの永積タカシの他、シンガーソングライターである一十三十一が参加しています。一十三十一が以前他のアーティストにコーラス参加したのはceroの「Orphans」以来ということです。そこで、まずこの「Orphans」の話からしてみます。なぜなら、この「Orphans」こそがまさに「平行世界」を歌った歌として、本作とも深い関わりを持っていると考えるからです。

歌詞の概要はこうです、学校をサボった男女2人がバイクで海に行く、そこで2人は「別の世界では2人は兄妹だったのかもしれない」と思う。「平行世界」とはこういう「もし〜だったら」という仮説が存在している世界が実在すると考えた場合の、自身の人生における無限の分岐点を想像し、また現在の自分もまたその無限の選択肢の一つとして理解する態度に他なりません。そして、「Orphans」における一十三十一のコーラスは「別の世界」という言葉が出たときに現れます。ここでの一十三十一の声は「別の世界からの声」つまり平行世界からの声であると僕は解釈しています。そもそも「コーラス」は洞窟や聖堂などで合唱をしていた修道士が、反響した音の中から生まれた倍音の声を「天使の声」として理解したところから始まっており、このコーラスもまた「反響する他者の声」であります。また、この「Orphans」のカップリングには小沢健二の「Eclectic」の曲「一つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」のカバーが収録されており、相互のかなり強い影響関係を感じさせます。さらに本作「流動体について」でも一十三十一のコーラスの歌い出しは「もしも」であり、この楽曲における一十三十一の声も同じ「平行世界からの声」という役割を背負ってると考えてられます。

なぜ「カルピス」なのか?彼の活動から読み解く

そして最大の謎、「なぜカルピスを飲むのか?」です。本作では歌の最後に必ずカルピスが言及されます。このカルピスは一体何を意味しているのか?これを読み解くために、先ほどのテーマであった「平行世界」的な想像力が鍵となります。つまり、「もしも飲んでいるのがカルピスでなかったのなら?」と想像、もといソーゾーしてみましょう。例えばここで飲むのが他のドリンク、例えば「コカ・コーラ」だったら?コカ・コーラを飲む小沢健二。みなさん想像できますか?「アメリカ」や「グローバリズム」「ロックンロール」を代表し、日本語ロックの嚆矢となったはっぴいえんど「はいからはくち」でも「こかこおら」とひらがなで歌われたコカ・コーラ、もしこれを歌っていたらそれはあまりにも意味が多層的過ぎます。これはほとんど「裏読み」に近い読み方ですが、少なくとも現在の小沢健二は「コカ・コーラを飲んでいない」こと、それが重要なのだと思います。現在彼が反グローバリズムについての活動を行っていることは知られていることですし、また発売日に載った朝日新聞の広告には食パンなどを指して「日本のガラパゴス文化」を褒めています。そういった考えの末、日本でしか販売されていない「カルピス」(厳密にはアメリカでも販売されていますが、「カルピコ」と名前が変えられています)を取り上げたのだと思います。グローバリズムではなくガラパゴスへ。

想像を続けます。もしかしたら、この「流動体について」という楽曲自体が、「あのまま活動を続けていたらいたはずの自分」としてのメッセージなのではないでしょうか。そして、突然の来日に加えたゴールデンタイムのニュース番組や音楽番組などの怒涛のテレビ出演などがまさにその「もしも」の仮説の検証であったとしたら?そう考えるとアメリカへ再度飛び立った後、公式サイトに書かれた、「僕は今回『流動体/神秘的』を良いと思ったような人たちを、恐ろしい言葉ですが、一回裏切ってしまったのだと思います」という言葉が、リリースされた楽曲を素直に購入し、テレビ出演をあまりに素直に「おかえり小沢くん」と喜んでしまった我々への言葉として、少し腑に落ちる気がします。

若さの中で、「そのままでいたい」と防衛的に思っていた若者が、「ヘッド博士の世界塔」という自分の好きなものだけで作り上げた迷宮のようなアルバムを組み上げた後に世間の前から消え、再び一人で現れたとき、後ろを全く振り返らずに、傷つくことを覚悟して時代の矢面に立った。それは一切ブレーキペダルを踏まずにアクセルを蒸し続けるような一種の「蛮勇」であり、ガソリンが尽きるまで走り続けるドラッグレースだった。そうして刀折れ矢尽くまで唄い続けた彼の姿は、今振り返ると日本の90年代の最後の明るさとその終わりの刹那を体現していたように思います。そこからNYへ飛び立ち、世界を旅してきた彼が見たものとは一体何なのか。そしてこれからの彼が何を伝えようとしているのか。今回の「流動体について」の解釈もあくまで個人的な仮説です。「流動体について」の歌っている多くのことが「ああ、そういうことだったのか」と本当に腑に落ちるのは、また10年以上先なのかもしれません。

 

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review:「SHOPPINGMALL」by小鉄

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何かあるようで何もないな?

 

 tofubeatsもリブログしていた都築恭一の郊外論は、中途までは「ふ~ん」と目を通していたが、地方で洗練されたクリエイティビティを追及するのを「暗い気持ちになるんだよな」と結ぶ段でバッキリ。そりゃおれも自然栽培のパン屋云々、アートで町おこし、イノベーション、地域プロジェクト、地方活性の類に何の面白みも感じていないし場合によってはハッキリとバカにしているが、「イオンと軽自動車とカラオケボックスみたいな」ものが豊かさの天井という環境で、実際に、ただ飯を食い、ただ息をし、ただ生きているこちらとしては「そういうものより田舎らしい文化のほうが部外者としては面白い」などと言われても、それは大層雅なことでございます、とイヤミの一つも言いたくなる。

文中にある通り、そりゃ全国津々浦々のヒップホップ・シーンの、東に西に南に北に耳を貸すべき佳作はいくつもある。しかし地方の若者のクリエイティビティが全部フリースタイル・ダンジョンに収斂されて行くことをおれは望まない。何がリアル何がリアルじゃないかそんなことだけで面白いか????面白くねーわ!!!!!!!!!

 

何かあるようで何もないな!!!

 

 昨年の冬に見たKohhのライブは面白かった。ライブ終盤のKohhのMC。細かい言い回しは違うかも知れないが、以下のような内容だった。「高知や徳島から来たお客さんもいると思いますが、ここ、香川……香川のお客さんどれくらいいます?」客席のほとんどが挙手。「その人たちに訊きたいんですけど、地元である香川……地元、香川が好きだぞっていう人……どれくらいいます?」客席から歓声。「俺の地元は王子っていう所なんですけど……俺は王子が好きです。俺の地元なんで……皆さんにとって、地元の香川が好きなように、俺にとっての地元の王子が俺は好きです」歓声。「こうやって日本全国周ったり、外国行ったりもするけど、好きな町は結局地元!」ここから『結局地元』を歌いだすKohh……というシーンが最も印象的だった。

 

 

 俺の地元が一番である。そして、他の地元の奴らにとっては、そいつの地元が一番だと思ってる。俺にとって、俺の地元が一番なように。昨年末、王子で行われたKohhのライブで、Kohhの地元の友達が「世界に一つだけの花」のカラオケを披露したことはこれと繋がっている。これマジ。

 

何かあるようで何もないな……

 

 ここ数年のヒップホップ・シーンを覆う巨大な暗雲としてのトラップ。その源流を辿れば90年代のアトランタやメンフィスのギャングスタ・ラップに行き付くが、あのBPM130前後(あるいは半分のBPM65前後)の奇妙なビートはなぜ生まれたのか?これは予想だが、一般的なBPM70~90前後のヒップホップのトラックに対して「もっとラップしたい、おれはまだまだ喋りたいことがあるんだよ」という欲望が、BPMを引き延ばし、1曲でラップの乗る容量を拡大したものがあのビートではないか。初期のThree 6 Mafia、Tommy Wright III‎やNiggaz Of Destructionなどの強迫的にビートの隙間に3連フロウでリリックを詰めるラップを聴くとそう思う。

 

 

 ところで……時計を現在に戻し、トラップ~ヒップホップの最先端のハイプであるマンブル・ラップ。Lil YachttyやYoung Thug、Rich Homie Quanなどを筆頭に、崩された発音、iPhoneマイクに話しかけるような鼻声歌唱、単調に繰り返されるフロウを特徴とする。彼らへの称賛、あるいは批判は、シーンの重要な転換期に居合わせる興奮とも、近ごろの若いもんは調の小言とも様々に噴出している。マンブルとは「もごもごした、不明瞭な」という意味らしいが、口語的には「喋っている意味が理解できない」というニュアンスが強いようだ(最近、法廷ものの海外ドラマをよく観ていて、この語がよく出てくる)。まだまだ喋れるぞ、という意志によってトラックが引き延ばされて余年、積極的に喋りたいことはいよいよもう何もなくなった……というのがおれの見立てだが、果たして?

 

 

何かあるようで何もないな。

 

 僕が初めて付き合った女性は、サブカルチャーやアートにまるで興味がない子で、ある時「私、これから生きてても、CDって10枚も買わないと思う」とニコニコしながらおれに言った。他にも、飲食店で流れているBGMについて「英語の歌って、自分のわからない話をずっとされてるみたいで不安になる」とも言っていた。彼女はまじめな倹約家で、地元のイオンで働いて得た収入のほとんどは貯金に回していた。彼女は30才までに子どもを産んで家庭を持つ夢を持っており、また、その夢から逆算して自分の人生をカウントしていた。それは29歳で妊娠、しばらくは夫婦二人の結婚生活を3~4年楽しむ、25歳で結婚、そのために22~3歳には結婚相手と出会って恋愛をしていて……というもので、おれはその計画の遠大さ、壮大さにめまいを起こしその場にブッ倒れた(今も起き上がれない)。

 

 彼女が夜番の仕事のときは、彼女のバイトする店(ワンオペだがあまり客は来ない)の閉店作業も手伝った。照明が落ち、すべての店舗に防犯用のネットがかけられ、エスカレーターも止まり、昼のにぎわいが嘘のように静かなイオンで、おれはたしかに、音のないテクノを聴き、音のないヒップホップを聴き、音のないヴェイパーウェイヴを聴きとった。それはshoppingmallに似ていた。