「バトルロワイヤル」の子供(生き残り?)たち
紀伊國屋書店の発行しているPR紙「scripta」の斎藤美奈子「中古典ノスゝメ」は戦後の文学作品の中で「古典になりかけている」を取り上げている非常に好きな連載で、毎号必ず呼んでいるんですけど、今号はなんと高見広春「バトル・ロワイアル」でした。
斎藤美奈子氏の書評は当時のバッシングの空気に触れつつ「すごくまっとうな少年小説」という評を提示して、確かにそのとおりだなあと。正直自分は主人公の七原秋也のあまりにも主人公然とした振る舞いにあまり好感をもてなかったりするんですがまあさておき、日本ホラー小説大賞を逃したこの作品がいかに当時の選評で批判されていたかなども含めて非常に面白いです。最終的に落選したこの作品を、選評を読んで「クラスの全員が殺し合うって、めちゃくちゃ面白そうですよね?」と声を上げたのが枡野浩一さんで、そこから太田出版が紙面で著者を捜索して出版にこぎつけたエピソードは「文学賞メッタ斬り!」にも描かれているのでそちらを参考にしていただければ良いとして、ここであまり看過できない文章が後半にありまして。
にもかかわらず、『バトル・ロワイアル』は今日、純文学業界からもエンターテインメント業界からも、少年文学業界からもはじきだされ、せいぜいライトノベルかサブカルチャーの一種として扱われているように見える。
えええ。いやたしかに、「文学」の中では今作の評価は微妙かもしれないけれど、むしろ「バトルロワイアル」の影響力は深度と拡散力において今日でも凄まじい気がするんですが。ちょっとこれは捨て置けない。なにせこの本を読んだときはリアルタイムで14歳でしたからね。一応歴史的な生き証人としてそれは擁護せねばならないのではないか、という気がしたので少し書きたいなと。
「バトル・ロワイアル」が出版されたのが1999年、映画化されたのが2000年で当時はこの作品がR指定されたことなんかが話題になったりしましたね。私はもちろん観に行ったクチでした。「BR法」によって毎年学校の1クラスが無作為に選ばれ、クラス全員が最期の一人になるまで殺し合うという話は、作者がスティーブン・キング「死のロングウォーク」から着想を得たと語っていましたが、それを学校のクラスに移し替えたのが彗眼と言うべきで、爆発的な反響を得ます。当時、中学生で「自分たちのクラスでバトル・ロワイアルがあったら」という話をしなかった人はいないのではないでしょうか。
その影響から生まれた作品としてはまず出てきたのが2001年に出た山田悠介「リアル鬼ごっこ」。著者が10代の少年、しかも自費出版という形で出た本書は編集も殆ど入っていない若々しい、というかはっきり言って雑な文章にも関わらずベストセラーになりました。いかに「10代の子どもたちが殺される」という設定だけでも訴求力になりえるという証左でもあると思います。今作はその後何度も映画化されますが、正直「バトル・ロワイアル」の権利が取りにくいか、こっちのほうが安いからだと思います。
その後もいわゆるバトルロワイヤルものは言うに及ばず、なんらかの現象によってクラスの面々が死んでいくといった「デスゲーム」ものという派生を含めて膨大なフォロワーを生んでいきます。あとは「生き残り」に主題をおいた「サバイブ系」と言われるような作品を含めると「進撃の巨人」なんかも当てはまるような気がします。
しかし本書の影響力というのは国内コンテンツにとどまっていないことが重要で。特に映画版「バトル・ロワイアル」は深作欣二ファンのタランティーノの影響もあって海外のティーンでも、日本のカルチャーにはさほど興味を持ってなくても知っているレベル、それこそジブリやハルキムラカミに匹敵するほどの知名度を持っています。
2008年にアメリカで出版され後には映画化された「ハンガー・ゲーム」。作者はバトル・ロワイアルの影響を否定していますが、とてもテーマ的に似通った部分があることは否定できません。逆に言えば、それほどこれらの要素は意識的でなくとも実質的なフォロワーを生み出すほど浸透しているとも言えるかもしれません。
そしてその影響は小説マンガ映画には留まりません。ゲームでも広がりを見せ、2017年に登場した「PUBG」のバトルロイヤルによって爆発的に普及したそうです。今スマホで大人気になっている「荒野行動」も完全にこの系譜のものですね。
さらにこの荒野行動などのマルチプレー形式のゲームを逆にマンガに取り込んだものとして、現在のHUNTERXHUNTERの王位継承戦編があるような気がしてなりません。そもそもあの中で行われている人を殺すことでのレベル上げしたら能力アップ要素とか、ヒソカを探していくアドベンチャーゲーム的な要素とかすごくソシャゲっぽいというか、スマホの中に入ってるゲームを全部一気にだしたらこんな感じになるみたいな事になってるのが今のHUNTERXHUNTERで、だから「カキン(課金)王国」なのかなと思ったりします。
ともあれ何が言いたかったと言うと、決して「バトル・ロワイアル」は過小評価されたわけではなく、むしろ要素が拡散し、文学以外にとどまらないカルチャーにおいて浸透しているからこそ、見落とされがちなのではないか、ということです。それは逆に言えば、今「バトル・ロワイアル」を読むことは、いまや定番化した「デスゲーム」「バトル・ロワイアル」要素を抜いた部分でなにを読むことができるか、ということでもあります。
例えば、この「BR法」を「大人に押し付けられた偽物のイニシエーション」として読むことも可能だと思われます。「クラスの全員で殺し合うこと」を強制することでそれが少年少女たちにとって大人になるきっかけになるという押し付けや、他の政府批判などのガス抜きに使われてしまう世界は例えば現在では「なぞのオリンピックボランティア押し付け」のようなものや「卒業や投票制度の中で必死に競争させ合う」アイドルシステムの批判として読むことも可能だと思います。そもそも、「バトル・ロワイアル」ものが10代にウケ続けているのかといえば、その狭い社会の中で不毛な競争を常に強いられているというプレッシャーを彼ら彼女は常に感じているからではないでしょうか。そんなことを考えつつ、久しぶりに「バトル・ロワイアル」を読み返したいなと思ったりしたのでした
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