金色夜叉の可能性~吉岡里帆へ贈る#1

突然ですが吉岡里帆さん、かわいいですよね。

京都出身のはんなりした雰囲気をもちつつ、芯の強そうな感じなどても素敵です。

2017年上半期のブレイク女優一位にも選ばれ、7月からは初のヒロインとしてドラマ「ごめん、愛してる」に出演。CMやテレビ、雑誌の表紙など毎日見ない日はないほどのブレイクっぷりで、昨年の夏、河原町駅で団扇を配っていたキャンペーンを身に自転車を走らせて駆け付けたのがすごい昔のようです。(間に合わなかった)

 

そんな彼女のブレイクのきっかけとなったのが、NHKの朝ドラ「あさがきた」。そこで、堅物な女学生田村宜を演じたことで、彼女の人気は急上昇します。そのドラマの象徴的なワンシーンとして、彼女が新聞連載の「金色夜叉」に夢中になるシーンがあります。

https://twitter.com/think_literacy/status/709167780629598208

尾崎紅葉の『金色夜叉』は明治30年の元旦から、読売新聞紙上に連載が開始されました。当時の読売新聞は「大新聞」と呼ばれ、それまで小新聞と呼ばれた硬派な政治ジャーナリズムに加え、娯楽読み物などを加えたコンテンツで世間に浸透していきます。そのキラーコンテンツの一つが、当連載でした。

 

 

しかし、現在において尾崎紅葉、そして『金色夜叉』はほとんど知名度的には落ちている、といってよいでしょう。

それは文語体と漢学の素養による華麗な雅俗混交体に対して、2015年に生きる自分たちがあまりにも遠くなってしまったからでしょう。

例えば現在刊行されている、河出書房「日本文学全集」では、尾崎紅葉の名前は存在しておらず、最後の文語体作家は樋口一葉で、それも川上未映子氏による「現代語訳」がなされております。それほど、文語というものに我々現代人が遠ざかってしまったということでしょう。ちなみに、樋口一葉が亡くなったのは金色夜叉連載の一年前。日本文学全集の次の巻は口語文である夏目漱石で、彼は尾崎紅葉と同い年ですが紅葉没後にデビューしています。自分も、読み慣れない擬古文による雅俗混交体を、角川文庫から出ている山田有策によるガイド本を片手に、なんとか読みこなしたという程度の人間です。

 しかし、尾崎紅葉は明治最大のベストセラー作家の一人であり、そもそも「小説」のみで身を立てるということに成功した日本初のプロ小説家であり、『金色夜叉』は「流行小説」のはしりでした。読売新聞はこれによって部数を飛躍的に伸ばし、小説をむさぼるように読んだのは決して宜さんだけではありませんでした。それはメディアを含めて、大衆社会が誕生する萌芽の時期でもあったということができるでしょう。ある人は遺言として「金色夜叉の続きを棺桶に入れてほしい」といったほどです。

 

それは時代と場所、そして媒体を越え、様々なブームを巻き起こしました。それは弟子たちによって描かれた続編(スピンオフ)や、芝居や劇、はては音楽までのメディアミックスを巻き込んで明治の終わりから、大正時代を通じて高まっていきます。その名声は昭和3年改造社から出版され後の「円本ブーム」の嚆矢となった「日本文学全集」の第一巻が他でもない尾崎紅葉だったことでも、当時なお紅葉の人気が高かったことがわかります。

 

おそらく紅葉の起こしたブームの残響は明治から大正を超えて、昭和の末までは届いていたように思われます。そして、それが現在途絶えてしまった。おそらく現代のわれわれが抱える日本の断絶の一つだろうと私は思っています。その一つが文語文であり、尾崎紅葉はそれまでの近松、黙阿弥などの元禄文学のエッセンスをふんだんに作品に込めつつ、それを近代化へ向かう日本人向けにチューンナップして執筆しました。その意味で紅葉の作品の残響は、そのまま江戸時代の残響でもあったといっていいでしょう。山本夏彦は「文語文」の中で、それまでの文語文の伝統までは、尾崎紅葉は元禄文学の継承者であり、樋口一葉清少納言から続く日記文学の最後の系譜であったことを指摘しています。

連載が開始した明治30年から、時を待たずして『金色夜叉』は他メディアに翻案、今の言葉で言うメディアミックスされていきました。しかし、その際において、原典にはなかった部分、また間違いや勘違いといったものも多く散見されます。それは当時当時の人々の持つ価値観が移り変わり、その価値観が作品に反映されていったからであることはいうまでもありません。それはもちろん「現在」の私たちも変わりません。だからこそ今回私は吉岡里帆という現代最も‘旬‘な女優を触媒にして、明治、大正、昭和にかけて、日本人の経済観、恋愛観などは大きく変化し、それに合わせて作品の解釈も変わっていきます。この連載は、一つの作品の翻案などを見ていくことでそれを辿っていくことができたら、と思っています。

 

大塚英志は、「物語消費論」において人が二次創作へと向かう理由を「キャラクターへの愛」から発し、その結果男性キャラクター同士が同性愛関係にあるというようないわゆる「やおい」といった原作の逸脱性すらを生みだしていくと書いています。『金色夜叉』が生み出された当時の翻案は正確には「二次創作」ではない。しかし、そこには小さな所で原作への逸脱が含まれており、そこから翻案者や読者の「なぜそう読み取ったのか」という欲望を知ることができると考えることもできます。そこで、それらの翻案を見ていき、なぜ翻案者とそれを受けとった読者や観客はそのように『金色夜叉』を「誤解」していったのかを見て行きましょう。