関西 in 仙台 第一回『堀江っぽいところ』byオノマトペ大臣

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GAGLEの新曲『千代』がリリースされ、同時に仙台市内で撮影されたMVが公開された。


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https://www.youtube.com/watch?v=Xp1juGfSw7M

流麗なストリングスとピアノ、タイトなドラムが良い塩梅で重なるトラックに、滑らかなラップが載せられ、そのリリックの端々には地形や歴史、行き交う人々の生活をさらりと描き切る技巧派の技が光る素晴らしい楽曲に仕上がっている。

仙台に転勤して10か月が経ち、今この曲のMVを見ていると、映る映像の約8割がどの場所で撮影されたものかが分かる。普段出勤で使う交差点、妻と夕食を食べた天ぷら屋、何度か足を運んだクラブ、各シーンに見覚えのある景色が並び、自分が生活を営む場が歌になり、ドラマの舞台として機能することに興奮を覚えずにはいられない。

仙台を示す形容の仕方で「コンパクトシティ」という言葉がよく使われる。狭い範囲で生活を完結することができるという主旨の言葉で、これまでも言葉自体は聞く機会があったが、仙台に住むことになりその良さについて、真に実感することとなった。ターミナル駅を基点として、職場と生活圏までの交通網による時間的な近さや、スーパーや役所など生活施設へのアクセスの利便性という一般的な観点もあるが、それだけでは無い、文化的な充足へのアクセスしやすさと、それに起因する精神的満足感を日々感じながら生活している。

仙台市は、仙台駅を中心として四方に広がっており、車で30分も走れば、海も山も、温泉街(秋保温泉)もある。北と東にアウトレットも2か所あり、世帯持ちの家庭が考える週末のレジャーには過不足なく、手軽にアクセスできる。

いわゆる都市機能(オフィス、商業地、繁華街)にフォーカスすると、仙台駅を中心として東西南北に延びる地下鉄でそれぞれ2駅程度。車で走ると10分くらいの範囲に都市が持つべき機能のほぼ全てが備わっている。

東北最大の都市であるだけあって、ちょっとした商店でもクオリティは高く、商業施設の多さに比例した健全な競争環境と、情報の集約による地域内での互いへの影響が感じられ、センスが磨かれ、前進する都市としての良い循環構造が築けているように見える。

特に、塩釜や閖上といった日本有数の漁港に近いことから来る鮮度の高い海鮮や、東北各地の名酒、銘柄牛など元々食材のポテンシャルが高いことで、飲食店のレベルは総じて高く、商店街のちょっとした店に飛び込みで入っても一定の満足感があり、味に比べて財布の中身が減らずに済むことは未だに新鮮な驚きを覚える。

たまたま転勤して、たまたま何年か住むだけの話ではあるが、ただ黙って通り過ぎるにはあまりも語るべきことが多い街であり、できればそこで感じた何者かを皆さんにも伝え、弱い関係性を結んでもらいたい。そう思い、関西出身の同世代(30代後半)の皆さんに向けて、「関西で言うと」どんな感じかということをお伝えしていきたい。なんで急に、関西なのか?ということだが、その理由としては ①関西ソーカルを主宰している ②関西出身なので関西との比較でしか街を見ることができない ③経営学の現役学生である という3点があげられる。

①②に関してはそのままの意味であるが、街自体にやんわりとした興味を持ち、何らかの自分なりの解釈を得たいと思うとき、一定範囲の一続きの店舗群を眺めると、どうしても「なんか北浜みたい」「十三の雰囲気」みたいなことを考えてしまう。北浜は北浜であって、その当てはめにより取り落とすものが多いことは理解するが、抽象化して自分のよく知ったものとの類似性を考え、ときに比較することで一旦結論を出してしまえる魅力は捨てがたい。限られた時間で、浅薄な知識の人間が、その地域と関係性を結ぶかどうかを判断するのには、この物差しは非常に便利だと感じる。きっと君もそうだろ?と共犯的な笑みを持って貴方にも提案したい。

③については、いま仕事の合間にビジネススクールに通っており、マーケティングの授業で対象は絞りに絞れ、そうじゃないと結局誰にも響かない、と言われているので、関西出身の俺みたいなやつに対象を絞って明確に球を放ることで、結果的に幾らかの人に意味のあるものとして最大限に響かせることを考えた。当然関西について少しでも知っている人や、たぶんそうじゃない人にも何らか感じるものがあるとは思うが。

そんなわけで、なぜか関西のワードが飛び出す仙台案内を始めていきたい。まず皆さんがもっとも気になる(?)、仙台に堀江はあるのか?問題について応えたいと思う。

堀江と言えば、元々は歴史ある家具街で、そこで培ったセンスの良さから派生して、いまは古着を中心とし、雑貨屋、個人経営の小洒落たカフェなども集まっており、揺るぎない地位を確立している関西屈指のオシャレエリアである。

結論から言うと、仙台にも堀江はあります!ただし、幾つかの地域に分散しており、もっと言えば、仙台駅周辺の商店街は全域的に薄めにそういう性格を帯びている。

実は仙台は90年代後半の古着ブームのとき、人口比率に対して古着屋の数が日本一と言われ、古着愛好家が多い。そもそもファッション自体への関心が高く、世界的ブランドであるマルジェラが黎明期の苦しい時期を仙台の高い売上で支えたという逸話まである。この当時は関西を代表するオシャレ雑誌カジカジにも、大阪の堀江、アメ村、東京の原宿、渋谷と並んで、なぜか仙台のスナップが良く掲載されていた。

20年以上の時を経て、仙台には古着の文化が確実に根付き、商店街メインストリートの大規模店舗から、裏路地二階の個人店、老舗から新しい店舗まで多数存在し、日常の光景として違和感なく溶け込んでいる。

そんな中で特に、旅行で来た関西人の皆さんに、この辺ディグったらどうですか?と言いたいのが添付した手書き地図のグラデーションのエリア「家具の街通り」周辺と、「肴町公園(~西公園)」周辺である。

まず「家具の街通り」であるが、名前が示す通り、この辺りは伝統的な家具の集積地帯で今でも多くの店舗で質の高い家具を購入することができる。恐らくそこから派生して、古着屋も違和感なく受け入れられて来たのではないか。この点は大阪の堀江と街の成り立ちが近いのではないかと推測できる。

またこの近隣には、専門学校や予備校が多く点在し、文化発展の重要なブースターの役割を担うセンス系の若者が多く、ビンテージからオリジナルまで様々な洋服を扱う古着屋が路面から古いマンションの一室まで三次元的に広がっている。

こんなことを書いておいて言うことでは無いが、自分はファッションのセンスが皆無なのでそれぞれの店舗の個性について分けて語ることは全くできないが、05年創業の「Utah(ユタ)」というお店は、仙台古着シーンではかなりの有名店で、近隣には、女性ものを扱う「イオリ」や、新品を扱う「ナリワイ」など別の店舗ラインもあり、この界隈で間違いなく重要な店舗の一つとなっている。

時折インスタグラムを活用した配信などでは、店員さんの知識を交えながら、季節の新しいラインナップが紹介されており、古着という文化では実は重要な要素なのだろうと思われる「深い知識」に裏打ちされた、面白さの現代的な伝播がなされている。

この地域には、個性的なカフェや、ドーナツ屋などがあり、有名な小料理居酒屋も多い(つるかめとか、玄孫とかめっちゃオススメ)ため、夕方~夜にかけて散策するには最適である。

もう一地域、紹介しておきたいエリアがある。今度は、堀江というよりもどっちかというと大阪で言う、靭公園っぽいかもしれない。仙台駅から真っすぐ続く青葉通を約10分歩き、少し北に入ったところにある「肴町公園」周辺。都市公園にはリスだけでなく人も群がる、ということで公園はどの地域でも注目すべきランドマークの一つだが、仙台の数ある公園のなかでも、比較的小さな「肴町公園」の周りはイイ感じに洒落たエリアになっており、市内を一区切りさせる大きな公園「大町西公園」までの間に薄く広く、散策すべき店舗が広がっている。古着屋でいうと、かなり西公園寄りになるが『Beagle』というお店があり、人気Youtuberも仙台を代表する店舗として訪問していたし、実際行ってみても個性的な古着が多かったので、ここはマストの重要な店舗であると感じる。

また個人的に良く行く、コーヒーと、店内選曲が最高な『Echoes』というお店があったり、グッドミュージックのDJも楽しめる『Waltz』というベトナム料理居酒屋があったり、雑貨屋やご飯屋さんも充実している。全般に少し緩い大人の洒脱さを感じられる空気感なので、ぜひリラックスした気分で訪れて欲しいエリアでもある。

とここまで、「堀江」っぽさということで書いてきたがいかがだったろうか?少しは関西人の貴方にも、仙台を身近に感じて貰えただろうか。

仙台は駅から続く商店街のインパクトが強く、これは大変素晴らしいことなのだけれど、商店街の公共的側面に気持ちをやると、その多層的な構造に目がいかない可能性がある。一つ路地を入り、小さなビルの二階に行き、10分離れた公園周辺を歩く。そうしないと見えてこない街の景色はたしかにあり、少なくとも我々の好きな文化はそうした場所に流れ込み易い。なんの因果かここに住む人間として、いつか貴方が旅行してくるとき、辞令がくだり転勤してくるとき、好きな人と一生の住処を決めるとき、土台を積み上げるためのブロックくらいは用意しておきたい。

そう思い、これからも関西人の貴方のために、ここで感じたことを記載しておきたい。関西ソーカルin仙台、つづく。

四天王以降の上方落語その3:桂二葉

桂米朝笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治の戦後の上方落語を支えた「四天王」が世を去ってからはや数年。念願であった寄席小屋「天満天神繁昌亭」も十年をかぞえ、神戸に2号館である喜楽館も開いたが、コロナ禍により上方落語は新たな問題に直面している。そんな中で、これからの上方落語を率いていく才能を取り上げていくシリーズ、第三回

令和3年度NHK新人落語大賞において、桂二葉が大賞を受賞した。

 

前進である1972年「NHK新人落語コンクール」から初の紅一点、女性落語家の受賞である。

 

女性、あるいは女流落語家は「女に落語は演じられない」と言われたのも今は昔、露の都の入門からいまや米朝一門、笑福亭一門、文枝一門のどの一門にも存在しており、古典派から新作派、また着る着物も女物を着るのかあえて男物を着るなど多様性が広がっている。

 

そのうち桂二葉氏は桂米二の弟子であり、米朝一門に属しているが、桂二葉の話をするためにはその大師匠である桂米朝から話をしたい。

 

桂米朝、戦後上方落語の中興の祖であり、落語家として二人目、上方では現在唯一人間国宝認定者でもあった氏は、いち落語家としてだけではなく関西文化を代表する人物としてあらゆる関西の人々に尊敬されていた名人であった。

米朝の功績として語られることに「ホール落語の成功」というのが挙げられることがある。多くても数百人規模であった寄席の舞台から千人規模のホールでの落語を成立、成功させ、上方落語の全国的な発展に大いに貢献したというものだ。もちろんそれはそのとおりである。しかし一方で、始めた当初、ホール落語というものに否定的であった声も少なくなかったという、いわく「演者が遠く仕草などが見づらい」など。そういったときに米朝は「落語は見るではなく聞くという話芸である。」ことをもって反論し、語りによって成り立たせられることを主張した。

 

そしてこの「ホール落語」が米朝落語のスタイル自体にも変化をもたらせていった。全国を回ることから伝わりにくいきつい関西弁はソフィスケイトされていく。全国に関西弁が広まったのはこの後、明石家さんまの東京進出にともなう吉本興業の全国展開以降であるからして、この作業は大変なものであったろう。よく「吉本芸人の使う関西弁は全国向けのエセ関西弁で、米朝が使う上品な関西弁こそが本来の関西弁だ」と言われることがあるが、実際は両方とも全国的に通用するために練り上げられた「ユニバーサル関西弁」ということができるだろう。吉本の関西弁が漫才やバラエティなどのテレビ向けの瞬発力のために鍛え上げられた言葉である一方で、米朝落語の関西弁は落語の多様な立場での物言いに適応するために論理的なものいいや、活字化することも可能な関西弁となった。(この、米朝落語の言葉が論文のような内容にも対応可能であることを示すために書いたのが「『持参金』の資本論」であったりします。)また、多くの人がその話芸を伝えやすい形で整えることになった。いわば芸を情報化し、整理したといっても良いだろう。立川談志は対談で米朝落語についてこのように述べている。

ハワイで俺の歓迎会やってね、そこへ現地の駐在サラリーマンが来て、落語をやっていいですかって。やんなよと、浴衣か何か着てやったんだよ、「はてなの茶碗」を米朝そっくりにな。これが聞けるんだよな、そのトーシロウの落語が。実によくできてんだ。(中略)台詞とか周りの配慮から何から、全部作品としてこしらえてるんだよね、あの人は。

しかし一方で、全国で通用し、ソフィスケイトに情報化したものに練り上げていく過程で変化したものもある。それは前述した批判にあった仕草の細やかさや、ネイティブ同士だから伝わるような音の高低などのニュアンスの妙といったものだろう。また、それを補うために落語内での説明をすることも必要になっていく。米朝の師である先代桂米團も、落語は地の文がなるだけ少なく、登場人物の描写によって成り立たせることが理想としていたが、千人単位の多様な観客の前ではどうしても地の文による説明が多くなっていく。これは上方落語だけではなく、現在で言えば志の輔談春など、ホール規模の落語になるにつれて話が長大化していくというのは一つの傾向である。それ故、米朝一門の弟子たちは米朝のスタイルを引き継ぎつつ、師を乗り越えるために氏が取捨選択していった部分を補完するように芸を完成していく。枝雀はテレビでも伝わるような瞬発力のある落語を目指したし、吉朝は仕草で観客を魅せていく芝居噺を突き詰めていく。先日襲名した桂八十八も、正統派の米朝落語に加えて歌や芝居噺を得意としている。

 

桂二葉の師匠である桂米二は、ソフィスケイトされた米朝落語を、さらに切り詰めていくという方法で芸を練り上げていった。仕草や目線などのニュアンスで表現できるもので説明を排し、米朝落語でも声のニュアンスとして残っていた「ボリュームの大小」も極力控え、息と間のタイミングの調節によって表現していく。それは京都をホームにしていることもあってか、水墨画のようか枯淡の境地すら感じさせる余白の多い、一つのミニマリズムの芸である。

そしてその弟子たちは、その米二の芸の余白に、自分自身のキャラクターを存分に盛り込むことができる。米二の弟子である二乗、二葉、ニ豆も、キャリアの初期から独自の個性を打ち出しているのはこの米二のミニマルな芸あってのことであろう。女性落語家が当初苦労するのが、元来男だけの伝承芸である落語をそのまま演じると、男の口調で女が話しているようになるという違和感が生まれてしまうという問題だった。米二落語のミニマリズムはそういった「色」を極力排除することで、女性落語家でもそういった違和感を感じることがなく、二葉のキャラクターが全面に出るようになっている。

 

そしてこの二葉のキャラクターである。ひょろっとした身長にきのこ頭という特徴は、一つのキャラクターとして我々の前に現れたときからそこはかとない面白みを与えてくれる。また氏の演じる子供の演じ方は、こういう子のリアリティとともに、ジェンダーの問題などを考える前に一つのキャラクターとして我々の前に飛び込んで来るのだ。また、カルチャーの感度も高く、SAVVYや毎日新聞などのコラム執筆も引き受けており、関西カルチャーの一端を担っている人物といえるだろう。彼女は決して色物ではなく、上方落語という大木の中の一葉、いや二葉の紅葉なのだ。

四天王以降の上方落語2:桂雀太

桂米朝笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治の戦後の上方落語を支えた「四天王」が世を去ってからはや数年。念願であった寄席小屋「天満天神繁昌亭」も十年をかぞえ、神戸に2号館である喜楽館も開いたが、コロナ禍により上方落語は新たな問題に直面している。そんな中で、これからの上方落語を率いていく才能を取り上げていくシリーズ、第二回

 

桂雀太

 

かつて、関西に爆笑王と言われた落語家がいた。

桂枝雀。元々は師匠である桂米朝譲りの端正なスタイルであったところから次第にオーバーなアクションをするようになり、会場にとどまらずテレビでさえ爆笑に次ぐ爆笑で沸かせた大名人であった。

また氏の発見した笑いに関する「緊張と緩和」理論は広く知られており、落語にとどまらない広い「お笑い」のメソッドとして語られる事が多いのは、氏に特別なリスペクトを捧げる人物に、ダウンタウン松本人志さん(本人がネットでの呼び捨てを嫌うため、敬称をつけております)がいるからであろう。

松本さん(本人の意向以下略)への枝雀の影響は、そういった理論にとどまらず、スタイルにも影響を与えている。一つ例を出そう。

枝雀の有名な言い回しの一つに「おひさんが『カーッ!』」というのがある。この際、枝雀は「おひさんが…」といった後に腕でポーズをとり、自分の禿頭を客席に向けた後に、「カーッ!」ということで観客を笑わせる。この言い放つまでの「溜め」とそこからの「発散」こそが「緊張と緩和」の最もわかりやすい例だろう。

 

松本人志さんもこのスタイルを引き継いでいる。松本さんがバラエティのトークなどでいう「えええええ〜ッ」という言い回しを思い出してもらいたい。その際、氏は必ず先に体を傾け、表情を作ってからこの言葉を発している。ここの、先に表情をつくる「溜め」は枝雀のものよりは少くなっているが、それは落語とバラエティの速度の違いなのだろう。さらに言うと、二人の影響を受けている千原ジュニアが「ほんでぇ、ダーッと」というような言い回しをする際、この溜めはさらに軽くなっており、氏は手を上下させなら話すのだが、そのテンポ自体は崩れない程度の溜めになっており、ブルースとロカビリーくらいのリズムの変化になっている。その次の世代の宮川大輔に至ってはもはや溜めは存在せず、言い放つ言葉の勢いのみである。

 

そのような現代のテレビバラエティまで敷衍している「緊張と緩和」という方法論を最も大々的に使い、必ず会場を爆笑の渦に巻き込んでいた枝雀の代表的な演目といえば「代書」であることに口を挟む人はほとんどいないだろう。まだ字の読み書きができない人がそれなりにいた時代、手続き書類を代行する仕事をしていた「代書」を舞台に、履歴書を書いてもらいにきた男が次々に言うとんでもない言葉とそれに対する代書屋の事務的な静かな対応のコントラストが爆笑を誘う枝雀の十八番である。元々は、先代米団治が代書屋をしていた経験を元に作り出した創作落語であり、氏の落語観を反映させた地の文の一切ない、会話の応酬だけで成り立っている本作を、孫弟子にあたる枝雀は爆笑話へと変えてしまった。※

地の文とはその世界を俯瞰から見る神のごとく第三者からの視点であり、「客観」の視点である。その地の文がないということは、落語の世界には言葉を発する登場人物たちの「主観」の視点しか存在しないということだ。それぞれの主観のぶつかり合いとしてドラマが進行していく、それこそが落語の一つの特色であり、だからこそ、立川談志が「主観長屋」と名付けたような、事実からは考えられないような話ができることが落語の魅力の一つだろう。

その主観の対立を、枝雀は緊張と緩和によってダイナミックに変化させる。ここで男が放つとんでもない言葉の数々を、代書屋は淡々と受け止める。当初、この男の狂気ギリギリのアホさに次第に笑ってしまうのだが、話が進むにつれ、それを淡々に受け止める代書屋の方に狂気が移っていき、その爆発(「ポン!」)によって話は破綻を迎える。会議の席でジョークを言うことを「アイスブレイク」というように、笑いには緊張を緩和させる効果がある。この話はまさに緊張の対立に耐えられなかった男が、その対立を緩和させ得る「笑う」という行為をしなかった故に壊れてしまうという話である。

 

この桂枝雀による「代書」を見たいという人も多いだろうが、残念なことがある。まず枝雀氏はすでに逝去されているということ、そして、「代書」を記録している映像があまりないということだ。また「代書」のサゲは2パターンあり、自分の好みの方である「ポン!」で終わる代書は録音でもあまりない。一番手にとり易いのは「the枝雀」に付属しているDVDでの映像だが、当時氏を見ていた人から言うと全盛期の勢いよりはいささか疲れが見えているという。それでもその映像でも爆笑間違いなしのものなのだが、自分のような生の高座に間に合ってない立場からしてみればその意見を聞き入れるしかなく、これよりも面白い高座を想像し悔しい思いをするしかない。とほほ。

しかし、我々にもその芸をリアルタイムで楽しむチャンスはある。その一つが枝雀の芸を引き継いだ弟子の演目を観るということだ。特に今、枝雀の爆笑のを引き継いでいる人物といえば、桂雀太は間違いなく筆頭だろう。初めて生の落語をみて笑いたい、という人に対して自分は必ず最初に勧めるのは必ず雀太の「代書」である。

https://www.youtube.com/watch?v=_6MJgx7MUPg&t=330s

 

枝雀の孫弟子にあたる雀太は隔世遺伝のように枝雀のスタイルを受け継いでおり、長い手足が動くオーバーなアクションは高座でよく映える。さらにその一方で大きい手手先の動きがじつは艶やかで美しく、「替わり目」などで氏の得意芸でもある酔っぱらいを演じても下品になりきらない。また、「替わり目」の途中で放たれる都々逸も絶品であり、まさに代書屋に登場する野放図な人物と静かなインテリジェンスを内包する人物であることが伝わってくる。実際氏のフットワークは軽く、ネットラジオを早い時期に始めたり、音声SNSであるクラブハウスでの落語会「紅葉寄席」の初期メンバーでもある。

氏はこの夏しばらく休養をとっていたが、今月から高座へ復帰し、前と変わらない爆笑スタイルの健在と、以前事務所を離れ独立した頃よりも自由に、更にこれからの落語界を見通す広い視野を持って行動している。まだ氏を見たことをない人は今こそ雀太を観に行くべきだし、これからの「覚醒後」の雀太の活動を注視すべきだろう。

 

次回は11月23日、NHK落語新人大賞の放送日に桂二葉について書く予定です。

※「代書」は枝雀の型もあるが、米朝から引き継いだ春団治の型である「代書屋」での書く所作の美しさにもぜひ触れていただきたい。まるでジャズ・スタンダードの「枯葉」をアップテンポに弾いたときとゆっくり弾いたときのように、同じ話の印象がここまで違うのかという違いを味わっていただきたい。

オノマトペ大臣私論〜街へ出るのに何も捨てる必要なんてないさ!そう、iphoneならね

今年でオノマトペ大臣「街の踊り」がリリースされて10周年となる。今作は2011年夏にネットレーベル「maltine records」からリリースされた無料データが好評となり、2012年にアナログ版としてリリースされた。このような当初は無料でアップロードされている音源を有料でも、レコードという形で所有したいという需要は単なる衒示的消費ではなく、また10年が経った今も記憶に留められていることは、「オノマトペ大臣」という特異な才能に対する人々の敬意を現しているのだと思う。

オノマトペ大臣は2011年当時26歳の千葉在住。某大手樹脂メーカーで働きながら、tofubeatsとのコラボレーションなどで注目を集め、去年このコンビでリリースされた「水星」はレコードとしては異例のセールスをあげ、クラブではアンセムとして特に「締め」の一曲としてよくプレイされていた。おそらく殆どの人がこの奇妙な名前を聞いた初めての体験は、tofubeatsiTMSでの初配信となった「BIG SHOUT IT OUT」だろう。この曲には彼のラッパーとしての非常に興味深い点が散見されるのだが、それは後述するとして、当時「tofubeatsの同郷の友人」として共演した彼が、周りの人を惹きつけながら支持を広め、ソロ名義でリリースするまでに至る彼の魅力を、このアルバムから語ってみたい。

まずリリックに関しては、『サマースペシャル』にあるありふれた日常風景(本当にありふれた、アルバイトの一日の出来事)の描写、特に冒頭の「サイダーの泡がはじけとんだら」という歌詞から連想される、かせきさいだぁ≡ややナオヒロックなどのLBネイションの影響を感じる人も多く、『CITY SONG』の歌詞世界はどことなくpizzicato fiveの大都会交響楽の系譜を連想(by tofubeats)させ、これらの世界観がオノマトペ大臣が言うところの「元町海岸通り系」という90年代の「渋谷系」の系譜を次ぐスタイルとしての正統性を感じさせるのに十分な役目を果たしており、「天才ナードラッパー」という肩書きのイメージになっているのだろう。

しかし、彼のラップの才能はいわゆる「日常系」という言葉でくくるにはあまりに特異である。特に彼のフロウのセンス。初めて「BIG SHOUT IT OUT」を聴いたときの冒頭「スタンスがナイスのパンクでラップなヒップでホップのリズムでバウンス」のハウスの四つ打ちのリズムに完璧に沿ったラインを決めていき、そこをすこしづつずらしていきながら展開させていくという、トラックに対しての非常に鋭敏なリズム感と反射神経に舌を巻いたのだった。これは続くtofubeatsとの作品である「水星」での「ipod iphone から流れ出た」という出だしのフロウにも顕著であった。筆者はあまりラップについて詳しくないのでうまく影響関係などを説明できないが初めて聴いて連想したのはJay-zのラップスタイルだったが、おそらくオノマトペ大臣は彼を意識したというわけではなく、彼自身の趣味である日本語ラップ(ある年代の作品は新譜を全て購入してチェックしていたという)を聴いていくにつれ培われたものなのだろう。このセンスは今作でも遺憾なく発揮されており、『FRIDAY NEW ONE』もハウストラックのリズムに対して冒頭は「派手なキ/ックの音/・躍らす/ガンガン/コンバー/スナイキ/あんたは/何なん?」16分の譜割りでラップをし「咲いた/花の/美/しさも/うまく/語れ/ぬまま/時が/過ぎ」と3連符の4拍子に切り替えフロウの基礎単位を変化させることで展開をさせるといったテクニックはいわゆる「天然」といったものではなく、計画無しでできるものではないだろう。彼の書く歌詞はオノマトペ大臣という名前にふさわしく擬音語、擬態語が多用されているが、そこに含まれている濁音によって言葉にアクセントをつけていくといった点や、「当たりでるレベルで喰うガリガリ君」などの一行などはラ行と濁音によってリズムを修飾していくセンスなども一朝一夕でできるものではない。

そして、一体なぜオノマトペ大臣がこれほどまでに人を惹きつけてやまないという点に関しては、彼の歌詞の内容と、それと一貫している彼自身のスタイルがある。それは端的に言えば「楽しむ」ことを重要視するという点だ。僕たちは普段「楽しみ」を身の回りのものから分けがちで、また現在からも離しがちである。「辛い日常/楽しい祭り」や「しんどい現在/美しい過去」といった感じで、過去や非日常的な妄想を美化されたファンタジーとして見せる娯楽の蔓延や、「現実を直視せよ」という言葉は残酷さ、辛さをうけとめろという意味で使われるというように。またもっとも顕著なのが「大人/子供」という人の成長にある大きな断絶だろう。大人になるとはつまり前述したファンタジーを切り離すことである。基本、大人への娯楽というものは「消費」の一形態としてしか存在していないといってもいい。

しかし、オノマトペ大臣が顕著なのはそのような二分立から軽やかに逃れて、しなやかに楽しんでいる現在の姿である。これは「日常にこそ楽しい瞬間がある」といった、また一方であるようなありふれたメッセージではなく(この「こそ」という言葉が逆説であることを現している)もっと短く「日常、楽しい!」というようなもの、シンプルかつ柔軟な姿勢だ。彼は間違いなく仕事も、趣味である音楽活動も、おなじように「楽しんで」いる。大人を楽しんでいるのだ。彼のこのライフスタイルのあり方はまさに、正社員とラッパーの両立という現在の彼の立ち位置にも現れており、僕たち大人も含め多くの人を惹きつけてやまないほど彼の圧倒的なポジティビティを放っている(そして「Sence of Wonder」での、一方マルチネの誇るネガティブアイドル=mochilonとの共演での、見事なコントラストが今作でのハイライトとなっている)。このアルバムのタイトル通り彼は「街」が踊る=楽しむ場所として見えているのであろうし、また街の人々が踊っているように見えているのだろう。「踊る」とはつまり対象を自身の楽しみに変換するためのツールであるから。そして筆者はこれからもオノマトペ大臣が日常からどんなラップを作り出していくのか、結婚後やそして父親になった時、オノマトペ大臣がどんなラップをするのか(西松屋でほ乳瓶の種類の多さに戸惑うようなラップをするのだろうか)個人的には非常にそれを楽しみに思っている。

子供の頃に憶えた歌 時が経てば忘れちまうさ また子供と共に憶えりゃいいさ Hey,I’m just singing “ララ〜ララ” 『CITY SONG』

このアルバムは「S.U.B.urban」という曲で挟み込まれたブックエンド方式の構成になっている。この曲も特殊な拍子(6/8拍子)で少年時代の景色と現在がオーバーラップしている視点と、彼の個性が端的に示された小品で、夜の街へ繰り出す快速電車がまるで銀河鉄道のように見えるほど幻想的な世界観である。この曲を聴き終わると30分弱。郊外から街へ出かけるのにちょうどいい時間だ。何かを決断する度に、別の何かを捨てなければいけない時代ではないのだし、この曲を聴きながら街へ出よう。もし今日6月2日なら歌舞伎町でもいい。(*本レビューはWEBサイト「NETOKARU」にて2012年6月2日に「街の踊り」がアナログリリースされた際の公開されたものを、リリース10周年を記念して再掲させていただきました。この日にオノマトペ大臣も出演するマルチネレコード主催「歌舞伎町マルチネフューチャーパーク 」が催されていたため、末尾がこのようになっています。当時の記録としてそのまま転載させていただきました)

 

執筆:神野龍一

街の動脈〜梅田新歩道橋から〜

村上春樹はかつて自分がジャズ喫茶を始めたとき、店の場所をその街をひたすら歩き回ることで、その街で流行りそうな場所をあたりを付けて開店させたという。こういった「栄える」というのはあくまでフィーリングの問題ではあるが、一方でとても説得力を感じるのは、同じ街を10年単位で眺めていると、決して人通りも少なくない、むしろ多いにもかかわらず、どんな人気が出そうな店でも必ず数年を待たずに閉店してしまう場所というのがあるのを知っているからだ。例えば京都の三条通り、京都文化博物館の向かいの店など、自分が知っているだけでもマクドナルドから始まって4店がクローズしている。その間にはサブウェイもあった。マクドナルドもサブウェイもうまく行かない場所というのもあるのだ。今google mapを見たらコロナ禍のあおりをうけて閉店していた。こういった場所はおそらく交通インフラの変化などによって人の流れそのものがドラスティックに変化しない限り、なかなか定着しにくい場所なのだろう。

 

ここ数年の中で人の流れが大幅に変わった場所といえば、やはりJR大阪駅と阪急大阪梅田駅間への移動ルートの変化においてほかはない。自分が大学に入った2004年では、梅田駅の大改修の計画がまだ始まっておらず、大阪駅にあるトイレなんて桜橋口のそばに一箇所しかなかったような状態だった。それが改修とともにホームにきれいなトイレができ、大阪ステーションシティルクア大阪、グランフロントと広がって現在に至るのはみなさんもご存知の通り。

 

かつて大阪梅田間を移動するルートといえば、駅の南側から改札を出て階段を上がって梅田新歩道橋を渡るというルートが、信号を待つことなく移動する主要ルートだった。(信号を避けるのには地下から向かうルートもあるが、言うまでもなく梅田の地下ルートは初心者向けではない)そのため、梅田新歩道橋は大阪の通勤通学者たちの大動脈として機能していた。そしてその人通りの多い場所には、政治主張から路上パフォーマンスを含めた多くの人達が集まっていたのだった。

 

この歩道橋は2009年に梅田阪急ビルの建て替え工事のために通行止めとなり、ここからの人の流れは途絶えてしまう。それに伴い、大阪駅北側の街の勢いも縮小していく。旭屋書店の閉店が2011年。ブックファーストの閉店が2014年というのもこの街の変化と決して無関係ではないだろう。時々youtubeでデビュー前のあいみょんが2014年頃に路上ライブをしている映像が上がるが、ライブをしている場所は梅田歩道橋の一階のふもとである。つまりこの頃には梅田へ行くために歩道橋を上がる人はそんなにいなくなってしまったということだ。

 

では大阪梅田間の移動はどうなったかというと、2011年の大阪ステーションシティの開業によって、大阪駅の北側のルートが開かれた影響が大きい。もともとこちらにも歩道橋はあったが、駅を出てからそのまま2階へと進むことができる簡便さによって階段を上がり下がりする必要のないこちらのルートが移動のメインへと移っていく。2017年には念願のヨドバシ梅田へと向かう橋がかかったことで、こちらのルートも完成したのだった。

 

では南側の歩道橋は何もなくなってしまったのかというと、そうではない。街の中にできた空白地帯は、「盛り場」からまた別の「遊び場」として再発見されるようになった。

2007年、大阪の日本語ラップ愛好家たちが毎週歩道橋の上に集まりフリースタイルを始めた。当時はmixiなどのSNSによって参加人数は増加し、彼らは「梅田サイファー」と呼ばれるようになる。そこから、R-指定などが登場したことで梅田サイファーの名は一躍全国区の名前になっていったのだった。

広沢虎造から考えるJ-POP史

昔は銭湯に入ると一人くらい、「旅ゆけば〜♪」と気持ちよく喉を鳴らしているおじさん、おじいさんがいたという。

このフレーズは浪曲の大名人、広沢虎造の十八番「清水次郎長」に出てくる定番フレーズ。ちなみに静岡清水出身であるさくらももこ氏の「ちびまるこちゃん」にも、まるこが冒頭のフレーズを口ずさむシーンがある。ちなみに、広沢虎造発の他の有名フレーズといえば、「馬鹿は死ななきゃ治らない」と、シブがき隊によってアップデートされた「寿司食いねえ」等がある(両方とも「森の石松と三十石船」に登場する)

 

https://open.spotify.com/track/1c3D1XIIvXiYShbjowkqvE?si=5IKRHCtHT4WErJGg5uJ4kg

今でも言い回しや言葉が残るほど、かつての広沢虎造の人気は絶大であったし、また浪曲の人気もものすごいもので、テレビが普及する戦後までは日本のエンターテインメントの頂点であった。ちなみに私は若手だと関西節の方が好みで、かつてケイコ先生で知られた春野恵子さんや真山隼人さんが好きです。

例えば、われわれが今の音楽を語る際、どうしても西洋音楽の輸入と咀嚼の方向から語ってしまいがちだが、実はそれでは捉えきれない部分があるのではないかと思う。

 

浪曲の語られにくさ

 

浪曲の歴史は他の話芸である落語、講談に比べて比較的浅い。発祥は江戸後期で、人気が勃興したのは明治期という新興演芸であった。また、圓朝の言文一致への影響や講談の語り本といった文学やジャーナリズムへの接近もあまりなく、節回しなどの「音楽的」な部分で聞かせることの多いことや、「浪花節」と言われるように義理や人情といったテーマが多い浪曲は、大衆的な人気が高くともいち早く近代システムを達成しようとしたインテリにはあまり評判が良くなかった。実際、夏目漱石泉鏡花など文学者が浪曲嫌いを公言する発言は多く、おそらく彼らには浪曲がそれまでの日本にあった芸能である義太夫説経節などの前近代のアマルガムのように映ったであろうことが想像できる。しかし一方で嫌いを公言しなければいけないほど世間ではウケていたということもそこからわかるだろう。文学者が浪曲に接近するのは、正岡容桂米朝の師匠である!)が「天保水滸伝」を浪曲に翻案するといった昭和まで待たなければいけない。そして正岡が浪曲に興味を持ったのが、氏が女性関係のトラブルなどで関西に隠棲しているときに連れ添った詩人、金子光晴から薦められたことがきっかけだと言われている。

このように「言葉」で語られにくかった浪曲の、「音楽」的な要素を注目していくと、それは今の音楽にまで連綿と続くような系譜がある。ラジオという音声メディアの普及とともに全国に広まると、浪曲人気はそのまま義太夫のように素人が真似して歌う(浪曲では正しくは「唸る」というが)ものとなり、素人名人会なども多く催され、習う専門の学校なども作られた。これのおそらく前者がカラオケやのど自慢にまで通じる文化の系譜の一つであり、浪曲学校からはその後三波春夫や村田英雄など、今では「演歌」と言われる人物の大御所が輩出される。

https://open.spotify.com/track/4tNBbOIoGehZvLesuzebDL?si=eozd8kfkSG6Snr2C9zHohA

 

虎造節の系譜

更に広沢虎造が独自に発展させていった「虎造節」と呼ばれる独特の歌い方も多くのフォロワーを生んでいく。

そのうちの代表的な一人があきれたぼういず川田晴久川田義雄)であろう。川田はギターを弾き語りながら虎造節を唸るという新機軸によって当時の演劇界で絶大な人気を得た。この時期はさながら三味線がギターという輸入楽器に移り変わっていく移行期と言ってもよく、バタやんこと田端義夫のギターの弾き方がどうみても三味線由来っぽかったりするのが面白い。そもそも三味線も江戸時代に入ってきた比較的新しい楽器である。

https://open.spotify.com/track/5vMcRQKnvJjcvgmcHWoJod?si=JdvKp6LGQ06XFh5_JCbkbQ

 

ここで余談ながら歴史の勉強として書き留めておくと、脊椎カリエスが悪化した晩年の川田を、当時所属していた吉本興業吉本せい連続テレビ小説わろてんか」のモデルである)は治療代を払わずお払い箱にした。そして、他のファンであった興行師の懸命な治療が功を奏し、復帰公演を打とうとした際、吉本興業は川田は自分の事務所の所属だと言って訴え、公演の中止と川田に莫大な違約金を吹っかけたのだった。その際に仲介に立ったのが三代目山口組組長、田岡一雄であった。そこから川田は田岡に恩義を感じ、自分のかわいがっているまだ子供であった新人歌手を田岡に紹介することになる。それが、後の神戸芸能社につながる田岡と美空ひばりの出会いであった。

    また、虎造節を今最も引き継いでいる人物というと、山下達郎が挙げられるだろう。かつて上岡龍太郎が「今流行っている山下達郎のクリスマス・イブを聴いて、あ、これは浪曲やと思った」という言葉に対して山下は「バレたか」と言ったという。実際に広沢虎造を敬愛している氏の歌いまわしは、彼がルーツにしているブラックミュージックと比較するとたしかに違うもので、「蒼氓」などは広沢虎造と連続して聞くとたしかに浪曲としてしか聞こえなくなってしまうほどの影響を感じる。山下達郎の師匠といえば大滝詠一だが、どうしても海外の紹介と影響ばかり論じられがちで、氏の分母分子論に言われる右派的な言説は無視されがちであるように、山下のそれも軽視されがちである。いつかサンデーソングブックで「広沢虎造特集」をしてほしいものである。

  

このタイトルの元になっているimdkm氏「リズムから考えるJ-POP史」のイベントで氏も、この著書の執筆動機について「じつのところ、いままでほとんどのリスナーは声しか聴いてなかったのではないか」と答えていた。確かに、歌声と歌詞、場合によっては歌詞の内容すらよくわかっていないということも多々あるのではないか、と思うことは多々ある。しかし、それが一口に悪いというわけではない。それまでの譜面を通じてしか伝え得れなかった音楽に比べ、歌手特有の声や節回しや歌い方、そういった魅力に引き寄せられた時代こそ、録音芸術が確立した後のポップスという文化の「核」と言えるのかもしれないからだ。そしてその日本の最初期のスターは、広沢虎造であった。かつての人々が「バカは死ななきゃ治らない〜」とあの節回しを聞き、口をついで歌うことと、今の我々が「ドルチェアンドガッパーナの香水のせいだよ〜」を聞き歌うことに、そう違いはないように思えるからだ。

最後に、このテキストを大滝詠一氏に捧げます。

 

review:tofubeats「TBEP」

本作は今年刊行予定の「kansai socal vol.4」に掲載する「tofubeats論」の草稿の一部である。

CLAVA et VITA

 

本来、自分はこの作品をレビューする資格がない。なぜならクラブユースのハウスEPをクラブで聴かず、部屋のスピーカーやイヤホンで聴いているというのは、自粛中のレストランのメニューをubereatsで「お取り寄せ」して食べているようなものだからだ。しかし、そうも言ってられないのはみなさんご存知の通りで、クラブやライブハウスがかつてのように営業することが可能となる日は正直なところ見通しすら立っていない。

 

tofubeatsの「TBEP」はその名の通り、氏のEPとしては「STAKEHOLDER」以来の二枚目のEP。名前そのままという作品だと「First album」以来。二曲のみがボーカル曲だがそれもそれぞれ歌までには1分以上の時間がかかるクラブ使用になっている。いわゆるポップスだと冒頭一分以内にいわゆるサビがこないといけないというセオリー、いまや配信時代になると「サビはじまり」でないといけないとさえ言われている時代でこの選択は英断、見る人によっては蛮勇にすら映るかもしれない。しかしそれでも、この選択を選んだということに、tofubeatsが「クラブミュージック」を出すことの意義だろう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=NOMoFp-u-J0

 

 

先行してMV公開された「SOMEBODY TORE MY P」は国吉康雄※1の「誰かが私のポスターを破った」にインスパイアされたインストナンバー。

 

tofubeatsの作る楽曲は、例えばseihoやmetomeの楽曲が360度からの視点を意識したようなオブジェ的、立体的なイメージを連想させるものが多いのに対して「平面性」が強いように感じる。それは日本庭園の視点の固定性などを例にした日本的なフラットさとも言っていいし、ある種の「作りもの」であることへのこだわり、背景画が裏側から見るとベニヤ板である、といったような本人の嗜好性からくるものでもあるだろう。※2それはただ平板だというのではなく、テクノナンバーになると一つの物質性を伴って顕在化する。ちょうどまるでジャスパー・ジョーンズが旗や紙幣などをキャンパスで描くことで絵画の平面性を暴いたような、そんな印象を受ける。※2また、「誰かが私のポスターを破った」も絵画の中に人物画と共に背景に破られたポスターとしての「絵」が作中作として挿入されており、平面空間に2つの対象が交差するという構図になっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=CBKQoqTI2iE

 

 

意味深なタイトルと映像のコラージュで様々な憶測だけを呼ぶ「陰謀論」。「踊らされていた」という歌詞でダンスミュージックを歌う今作を語るに、前作「ふめつのこころ」を制作した際に参考になったという國分功一郎「中動態の世界」が参考になるだろう。少し、本書の内容を説明すると、動詞には「する/される」という「能動態/受動態」の関係性の間にかつてギリシャ語では「中動態」という状態を表す用語があったこと、そこから掘り下げていくとかつて動詞は「中動態/受動態」の対称であったものが能動態へと移り変わっていったことを哲学的に掘り下げていき、それを現代の依存症の問題や暴力と権力の問題、現代的主体のありようにまで広げていく、という内容である。

 

「中動態」を説明するのに一つ例を出すと、イソップ童話の「北風と太陽」が最もわかりやすいだろう。北風が風によって無理やりコートを脱がそうとするのが受動(暴力)的な行為であるのに対して、太陽が暑くすることで旅人が自分から脱ぐように仕向けさせるように働きかけるのが中動(権力)的な力の加え方ということができるだろう。もちろんイソップことアイソポスが古代ギリシャ人であったということは言うまでもない。

いうなれば「踊らされていた!」と歌う「陰謀論」はそういった音楽による「踊り」への中動態的な働きかけを歌っている、ということもできる。

「踊る」という行為は主体が曖昧なものであるということを自分も以前l書いたことがあるが、そもそもレビュー(批評)という行為自体が、踊りと似たようなところがある。作品を前に何かを語り、それ自体が作品でもあるという批評行為自体が、音楽を前に自身がなにかを表現しているダンス行為と相似形を成している。時にそのダンスが音楽のリズムも拾えていなかったとしても、ダンスそのものの見事さで成立してしまったりもする部分も含めて。※3

https://www.youtube.com/watch?v=liVy1B3ENYc

 

クラブの良さを行ったことのない人に伝えるのは非常に難しい。映画やドラマなどで出てくるクラブシーンの滑稽さは古くは「三年B組金八先生」のディスコシーンから延々と続いている。ちなみに濱口竜介監督は「ハッピーアワー」とtofubeatsが音楽を担当した「寝ても覚めても」の二作連続でクラブでのシーンを入れているが、その意図はよくわからない。「寝ても覚めても」のクラブシーンも、「ショボいクラブ」としてクラブシーンを撮ったのか結果としてああなってしまったのかは解釈の幅がある。

「クラブ」で歌われる淡い期待感。それは自分たちが普段通っているクラブの景色にほかならない。よくシティポップやパーティソングで描かれるクラブでは、華やかな空間で音楽が流れ続け、友達と再会しシャンパンで乾杯みたいな歌詞が登場するが、普段自分たちが行くクラブはそんな空間ではない。そもそも薄暗く、決して綺麗でもない、後半になるど誰かがこぼしたドリンクのせいで床がベトベトになり、酔いつぶれた客がトイレでしがみついていたりする場所がクラブだ。でもそんな場所に自分たちがなぜ行くのかと言うと、おそらく紛れることができるからだろう。闇に紛れ、人に紛れ、音楽に紛れること。自分にとってそれは「ハレ」の日のような特別なものではなく、日常の延長にあるからこそ安らぎを覚える。クラブの良さとは中の空間と同じくらい、クラブの入り口で聞こえるキックの重低音の高揚感や、クラブが終わったあとの早朝の景色、例えば京都メトロが終わったあと、丸太町から四条までを鴨川沿いに歩いて帰るときの湿った涼しい風の感触までのすべてがクラブの風景だ。

こうして書いていると、本作が早くクラブの現場でプレイされる日を願ってやまない。その場ではどんなことでもできるのがクラブの一番いいところで、クラブだと本作含めライナーで書かれていたボツ作ももしかしたらかけられるのかもしれない。もしかしたら「ふめつのこころ」も聞けるかもしれない。

 

※1国吉康雄第二次世界大戦を挟んで前後アメリカで活躍した日本人画家。ちょうど時代としては同じ時期にヨーロッパで 活躍した藤田嗣治と対象的なところがある(特に第二次世界大戦後日本を支持する藤田とアメリカに立つ国吉など)

 

※2ただ一方で、不定形なもの、霧や雲や川といったものを音楽的に描写するのはtofubeatsは非常に得意であると思う。そしてそれこそが氏がJ-POPでも根強く支持される理由だろう。

 

※3音楽を理解しそれを踊りの表現として落し込んだ最も幸福な出会いの一つが、ローザスによるスティーブ・ライヒの音楽によるダンスプログラムだろう。批評が作品に貢献すべきかどうかは、少なくとも自身はそうありたいとは思っているが、必ずしもそうあるべきであるとは思わない。例えばピナ・バウシュは「オフィーリア」にある男性中心主義的な思想をフェミニズム的観点から自身のダンス作品で徹底的に破壊し尽くした。そのダンスをはじめた者を、のけ者にしてはいけない