街の動脈〜梅田新歩道橋から〜

村上春樹はかつて自分がジャズ喫茶を始めたとき、店の場所をその街をひたすら歩き回ることで、その街で流行りそうな場所をあたりを付けて開店させたという。こういった「栄える」というのはあくまでフィーリングの問題ではあるが、一方でとても説得力を感じるのは、同じ街を10年単位で眺めていると、決して人通りも少なくない、むしろ多いにもかかわらず、どんな人気が出そうな店でも必ず数年を待たずに閉店してしまう場所というのがあるのを知っているからだ。例えば京都の三条通り、京都文化博物館の向かいの店など、自分が知っているだけでもマクドナルドから始まって4店がクローズしている。その間にはサブウェイもあった。マクドナルドもサブウェイもうまく行かない場所というのもあるのだ。今google mapを見たらコロナ禍のあおりをうけて閉店していた。こういった場所はおそらく交通インフラの変化などによって人の流れそのものがドラスティックに変化しない限り、なかなか定着しにくい場所なのだろう。

 

ここ数年の中で人の流れが大幅に変わった場所といえば、やはりJR大阪駅と阪急大阪梅田駅間への移動ルートの変化においてほかはない。自分が大学に入った2004年では、梅田駅の大改修の計画がまだ始まっておらず、大阪駅にあるトイレなんて桜橋口のそばに一箇所しかなかったような状態だった。それが改修とともにホームにきれいなトイレができ、大阪ステーションシティルクア大阪、グランフロントと広がって現在に至るのはみなさんもご存知の通り。

 

かつて大阪梅田間を移動するルートといえば、駅の南側から改札を出て階段を上がって梅田新歩道橋を渡るというルートが、信号を待つことなく移動する主要ルートだった。(信号を避けるのには地下から向かうルートもあるが、言うまでもなく梅田の地下ルートは初心者向けではない)そのため、梅田新歩道橋は大阪の通勤通学者たちの大動脈として機能していた。そしてその人通りの多い場所には、政治主張から路上パフォーマンスを含めた多くの人達が集まっていたのだった。

 

この歩道橋は2009年に梅田阪急ビルの建て替え工事のために通行止めとなり、ここからの人の流れは途絶えてしまう。それに伴い、大阪駅北側の街の勢いも縮小していく。旭屋書店の閉店が2011年。ブックファーストの閉店が2014年というのもこの街の変化と決して無関係ではないだろう。時々youtubeでデビュー前のあいみょんが2014年頃に路上ライブをしている映像が上がるが、ライブをしている場所は梅田歩道橋の一階のふもとである。つまりこの頃には梅田へ行くために歩道橋を上がる人はそんなにいなくなってしまったということだ。

 

では大阪梅田間の移動はどうなったかというと、2011年の大阪ステーションシティの開業によって、大阪駅の北側のルートが開かれた影響が大きい。もともとこちらにも歩道橋はあったが、駅を出てからそのまま2階へと進むことができる簡便さによって階段を上がり下がりする必要のないこちらのルートが移動のメインへと移っていく。2017年には念願のヨドバシ梅田へと向かう橋がかかったことで、こちらのルートも完成したのだった。

 

では南側の歩道橋は何もなくなってしまったのかというと、そうではない。街の中にできた空白地帯は、「盛り場」からまた別の「遊び場」として再発見されるようになった。

2007年、大阪の日本語ラップ愛好家たちが毎週歩道橋の上に集まりフリースタイルを始めた。当時はmixiなどのSNSによって参加人数は増加し、彼らは「梅田サイファー」と呼ばれるようになる。そこから、R-指定などが登場したことで梅田サイファーの名は一躍全国区の名前になっていったのだった。