四天王以降の上方落語その3:桂二葉

桂米朝笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治の戦後の上方落語を支えた「四天王」が世を去ってからはや数年。念願であった寄席小屋「天満天神繁昌亭」も十年をかぞえ、神戸に2号館である喜楽館も開いたが、コロナ禍により上方落語は新たな問題に直面している。そんな中で、これからの上方落語を率いていく才能を取り上げていくシリーズ、第三回

令和3年度NHK新人落語大賞において、桂二葉が大賞を受賞した。

 

前進である1972年「NHK新人落語コンクール」から初の紅一点、女性落語家の受賞である。

 

女性、あるいは女流落語家は「女に落語は演じられない」と言われたのも今は昔、露の都の入門からいまや米朝一門、笑福亭一門、文枝一門のどの一門にも存在しており、古典派から新作派、また着る着物も女物を着るのかあえて男物を着るなど多様性が広がっている。

 

そのうち桂二葉氏は桂米二の弟子であり、米朝一門に属しているが、桂二葉の話をするためにはその大師匠である桂米朝から話をしたい。

 

桂米朝、戦後上方落語の中興の祖であり、落語家として二人目、上方では現在唯一人間国宝認定者でもあった氏は、いち落語家としてだけではなく関西文化を代表する人物としてあらゆる関西の人々に尊敬されていた名人であった。

米朝の功績として語られることに「ホール落語の成功」というのが挙げられることがある。多くても数百人規模であった寄席の舞台から千人規模のホールでの落語を成立、成功させ、上方落語の全国的な発展に大いに貢献したというものだ。もちろんそれはそのとおりである。しかし一方で、始めた当初、ホール落語というものに否定的であった声も少なくなかったという、いわく「演者が遠く仕草などが見づらい」など。そういったときに米朝は「落語は見るではなく聞くという話芸である。」ことをもって反論し、語りによって成り立たせられることを主張した。

 

そしてこの「ホール落語」が米朝落語のスタイル自体にも変化をもたらせていった。全国を回ることから伝わりにくいきつい関西弁はソフィスケイトされていく。全国に関西弁が広まったのはこの後、明石家さんまの東京進出にともなう吉本興業の全国展開以降であるからして、この作業は大変なものであったろう。よく「吉本芸人の使う関西弁は全国向けのエセ関西弁で、米朝が使う上品な関西弁こそが本来の関西弁だ」と言われることがあるが、実際は両方とも全国的に通用するために練り上げられた「ユニバーサル関西弁」ということができるだろう。吉本の関西弁が漫才やバラエティなどのテレビ向けの瞬発力のために鍛え上げられた言葉である一方で、米朝落語の関西弁は落語の多様な立場での物言いに適応するために論理的なものいいや、活字化することも可能な関西弁となった。(この、米朝落語の言葉が論文のような内容にも対応可能であることを示すために書いたのが「『持参金』の資本論」であったりします。)また、多くの人がその話芸を伝えやすい形で整えることになった。いわば芸を情報化し、整理したといっても良いだろう。立川談志は対談で米朝落語についてこのように述べている。

ハワイで俺の歓迎会やってね、そこへ現地の駐在サラリーマンが来て、落語をやっていいですかって。やんなよと、浴衣か何か着てやったんだよ、「はてなの茶碗」を米朝そっくりにな。これが聞けるんだよな、そのトーシロウの落語が。実によくできてんだ。(中略)台詞とか周りの配慮から何から、全部作品としてこしらえてるんだよね、あの人は。

しかし一方で、全国で通用し、ソフィスケイトに情報化したものに練り上げていく過程で変化したものもある。それは前述した批判にあった仕草の細やかさや、ネイティブ同士だから伝わるような音の高低などのニュアンスの妙といったものだろう。また、それを補うために落語内での説明をすることも必要になっていく。米朝の師である先代桂米團も、落語は地の文がなるだけ少なく、登場人物の描写によって成り立たせることが理想としていたが、千人単位の多様な観客の前ではどうしても地の文による説明が多くなっていく。これは上方落語だけではなく、現在で言えば志の輔談春など、ホール規模の落語になるにつれて話が長大化していくというのは一つの傾向である。それ故、米朝一門の弟子たちは米朝のスタイルを引き継ぎつつ、師を乗り越えるために氏が取捨選択していった部分を補完するように芸を完成していく。枝雀はテレビでも伝わるような瞬発力のある落語を目指したし、吉朝は仕草で観客を魅せていく芝居噺を突き詰めていく。先日襲名した桂八十八も、正統派の米朝落語に加えて歌や芝居噺を得意としている。

 

桂二葉の師匠である桂米二は、ソフィスケイトされた米朝落語を、さらに切り詰めていくという方法で芸を練り上げていった。仕草や目線などのニュアンスで表現できるもので説明を排し、米朝落語でも声のニュアンスとして残っていた「ボリュームの大小」も極力控え、息と間のタイミングの調節によって表現していく。それは京都をホームにしていることもあってか、水墨画のようか枯淡の境地すら感じさせる余白の多い、一つのミニマリズムの芸である。

そしてその弟子たちは、その米二の芸の余白に、自分自身のキャラクターを存分に盛り込むことができる。米二の弟子である二乗、二葉、ニ豆も、キャリアの初期から独自の個性を打ち出しているのはこの米二のミニマルな芸あってのことであろう。女性落語家が当初苦労するのが、元来男だけの伝承芸である落語をそのまま演じると、男の口調で女が話しているようになるという違和感が生まれてしまうという問題だった。米二落語のミニマリズムはそういった「色」を極力排除することで、女性落語家でもそういった違和感を感じることがなく、二葉のキャラクターが全面に出るようになっている。

 

そしてこの二葉のキャラクターである。ひょろっとした身長にきのこ頭という特徴は、一つのキャラクターとして我々の前に現れたときからそこはかとない面白みを与えてくれる。また氏の演じる子供の演じ方は、こういう子のリアリティとともに、ジェンダーの問題などを考える前に一つのキャラクターとして我々の前に飛び込んで来るのだ。また、カルチャーの感度も高く、SAVVYや毎日新聞などのコラム執筆も引き受けており、関西カルチャーの一端を担っている人物といえるだろう。彼女は決して色物ではなく、上方落語という大木の中の一葉、いや二葉の紅葉なのだ。