ネオ青空カラオケシーン byオノマトペ大臣

都会のクジラが鳴いている。JR大阪駅構内の広い空洞を南に向かうと次第に大きくなっていく音。人々の群れとお喋りの間を木霊するボヤけた反響音は、巨大生物のいななきに聞こえる。

構造物を抜けて、都会的な灰色混じりの空が顔を出した瞬間、目に飛び込んでくる小型のスピーカーとマイク。ようこそ、ここは関西最大の都市、大阪梅田。頭上に広がる天体を版画で刷って写したようなこの街では、光を集める巨大構造物に寄り添うように、塵のような小さな人々が存在する。惑星の引力から逃れられない衛星のような彼らは、歌という自己表現を反響させて宇宙の隙間を埋めている。この街の衛星、ストリートミュージシャン名も無き月が今夜も地上で輝いている。

今、梅田には至る所にストリートミュージシャンが存在する。10年ほど前、彼らが活動する場は限定的であった。JR大阪駅と阪急百貨店、阪神百貨店までを繋ぐ大きな歩道橋である新梅田歩道橋(のちのよろこびっくり橋)の上、またそのちょうど中間地点の御堂筋線乗り口前の地上。当時警察のチェックも厳しかったこともあり、これらの場所がせいぜいであった。大層な機材を運び、大きめのスピーカーから音を出す四人のバンドマンたちは、玉石混交ながら、圧の高いパフォーマンスを肌で感じさせてくれるモノが多かった。

時が経ち、折りからの再開発を経過して、梅田の街はすっかりと変わった。巨大なビル群の大幅な増加で、商業圏も拡大し、分散。全てが都会的で清潔になった。阪神阪急、JRの緊張関係の中心にあった新梅田歩道橋、そこに溜まったエネルギーの象徴であったストリートミュージシャンも、分散する商業ビルの磁力に引っ張られて半径1キロ圏内の地上に散らばって行く。

現在、梅田のストリートミュージシャンの活動地点は、私が把握してる限り、以下の場所となる。 HEPのすぐ前、HEP前の横断歩道を渡った阪急側、JRと阪急百貨店を繋ぐ横断歩道の阪急側、ナビオと阪急百貨店を繋ぐ横断歩道の阪急側、グランフロントうめきた広場、JR大阪駅一階ヨドバシカメラ側、そして冒頭に記述したJR大阪駅一階大丸百貨店側。 一箇所の音を聞き、次の音を聞くのに5分もかからない位置で濫立している。本当に今の梅田はストリートミュージシャンのメッカとなっており、この点はもう少し認識されるべき文化的事象であろう。 しかも、このミュージシャンたちには二つ大きな特徴がある。一つ目はカバーが多いこと、二つ目はソロ(歌のみ)であること。機材の小型化と音楽の潮流が相まって、ポータブルなシステムでのお手軽な歌唱が中心となり、そのことがまた数の増加(とそれに伴うクオリティの上下)に寄与したと思われる。

秦基博ひまわりの約束一青窈のもらい泣き、この二曲は現代の梅田のソウルミュージックと言っても過言では無いほど、日々ストリートでカバーされている。その他、平井堅や、星野源、果ては三代目J SOUL BROTHERSまで。ジャンルの垣根はなく、テレビで流れる曲が原曲を忠実に再現した打ち込みトラックでカバーされており、極端な場合はCDシングル収録のカラオケバージョンがそのまま流されている。オリジナル曲や、その人の音楽的個性が色濃く反映された通好みの楽曲が歌われることは少ない。 極めて純度の低い表現欲求が極めてイリーガルな活動(JASRAC、警察機構 に対して)に帰結したこの現状は、かつてのある文化を思い出させた。それがタイトルにもある青空カラオケだ。

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青空カラオケとは、大阪市南部の中心地、天王寺にある天王寺公園で30年に渡り存在し続けた野外のカラオケ小屋群のこと。2003年に強制撤去されるまで9軒が軒を連ねていたそうだ。 青空カラオケは、良くある防音扉と壁で仕切られたカラオケ屋と違い、文字通り青空の下にスピーカーを出し極めて簡素な小屋から、野外に向けてその音を響かせるスタイルであった。ジャマイカの路上サウンドシステムを思わせるそれらは、当時のご当地の雰囲気と相まって、混沌とし、そら怖ろしく感じられたものだ。客層は年配の人間が多く、何かを表現したいというよりもむしろ純粋にただ人前で歌いたいという感情が煮詰まって、吹きこぼれたようだった。 青空カラオケは、既得権益と法のパワーバランスによりその存在を綱渡りで成り立たせていたが、2000年代初頭に大きく報道されたことにより強制撤去へと至っている。

それから10数年が経ち、ほんの10キロ離れた梅田の路上を「歌ってみた」世代の若者たちが賑わせている。恐らく彼らは、青空カラオケのことを知らない。 しかし創作能力やスキルフルな技術の発露、稀有な音楽性の世間への問い掛けなどではなく、プリミティブな自己顕示欲とより強い関係を結んでいるように見える彼らのパフォーマンスは、新梅田歩道橋にいたバンドマンの継承と言うよりもむしろ、天王寺公園という場を追われた青空カラオケシーンのアップデートに感じられてならない。歌のクオリティもほとんどが推して知るべしの状態なので、これをカラオケと違うと見ることが出来ようか。天王寺から少し離れた梅田の地で、現代の青空カラオケは形を変えて息づいている。

HEP前、下手くそな秦基博を目を閉じて歌う青年を三人の若い女の子が取り囲んでいる。東京みたいに綺麗な梅田の街で、大阪の猥雑な月を眺めている。