関西ソーカルvol.3


スクリーンショット 2016-08-01 16.55.14

interview:metome

客体 として触れる音楽 / 世界 /SNS

interview:zico

音楽を語る言葉の現在 Neralt

「キッチリ委員会」をめぐる冒険 ~村上春樹と田中康夫~ 中尾賢司

文学の中だけの京都 神野龍一

流氓ユダヤの神戸 ユダヤ難民と丹平写真倶楽部 加藤哲平

具体美術協会に関する考察 3 ~グタイピナコテカについて~ オノマトペ大臣

特別寄稿 京都のクラブカルチャー史〈前篇〉 田中亮太

4コマ漫画 小鉄

tweet okadada

新書版 124p

PRICE:¥1000+tax

長らくおまたせしていた「関西ソーカル」のVOL.3。ようやく今月中に発行できる目処がたちました。
今回、デザインをparagramの赤井祐輔氏に協力して頂き、とても洗練された雑誌に生まれ変わりました!

販売店

MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店
五階芸術書コーナーでフェア開催中!バックナンバーに加え、2人が選んだ選書を紹介するコーナーも増設される予定です。

中津 hawaii record
中津 シカク

京都VINYL7 RECORDS

神戸1003

東京 赤坂 双子のライオン堂

委託販売店舗も随時募集中です。

 

個別の注文ももちろん募集中
購入を申し込まれる方はこちらへ希望冊数を記名の上、お送りください。
もちろん、バックナンバーのvol.2(¥500円)vol.1(¥300)もお伺いしております
関西ソーカルvol.2 特設サイト

雑誌代+郵送代(冊数による変動)を返信させていただきますので、指定の振り込み口座に入金をよろしくお願いします。

関西ソーカル 主宰 神野龍一

Kansai Socal Radio 1ST Finale #1

大臣の辞令に伴う関東移住によって、突然の最終回を迎えた関西ソーカルラジオ!

一方で神野も引っ越しと、人生の第二コーナーへ向かう二人のトーク、まずは前半をお楽しみください。

  • 出会いあれば別れあり
  • オノマトペ大臣の建物探訪
  • いろいろやってました
  • 松戸に異動です
  • 俺達の選ぶ日本語ラップ100
  • 企業アカウント
  • iPhone割れた
  • 初めての社会体験
  • 君の名は
  • 未満都市&LOVELOVEあいしてる
  • アイデンティティー
  • fantasy clubレビュー(収録後出ました
  • T2trainspotting
  • 僕たちは痛みとともにユースの終わりを知るだろう

金色夜叉の可能性~吉岡里帆へ贈る#1

突然ですが吉岡里帆さん、かわいいですよね。

京都出身のはんなりした雰囲気をもちつつ、芯の強そうな感じなどても素敵です。

2017年上半期のブレイク女優一位にも選ばれ、7月からは初のヒロインとしてドラマ「ごめん、愛してる」に出演。CMやテレビ、雑誌の表紙など毎日見ない日はないほどのブレイクっぷりで、昨年の夏、河原町駅で団扇を配っていたキャンペーンを身に自転車を走らせて駆け付けたのがすごい昔のようです。(間に合わなかった)

 

そんな彼女のブレイクのきっかけとなったのが、NHKの朝ドラ「あさがきた」。そこで、堅物な女学生田村宜を演じたことで、彼女の人気は急上昇します。そのドラマの象徴的なワンシーンとして、彼女が新聞連載の「金色夜叉」に夢中になるシーンがあります。


尾崎紅葉の『金色夜叉』は明治30年の元旦から、読売新聞紙上に連載が開始されました。当時の読売新聞は「大新聞」と呼ばれ、それまで小新聞と呼ばれた硬派な政治ジャーナリズムに加え、娯楽読み物などを加えたコンテンツで世間に浸透していきます。そのキラーコンテンツの一つが、当連載でした。

 

 

しかし、現在において尾崎紅葉、そして『金色夜叉』はほとんど知名度的には落ちている、といってよいでしょう。

それは文語体と漢学の素養による華麗な雅俗混交体に対して、2015年に生きる自分たちがあまりにも遠くなってしまったからでしょう。

例えば現在刊行されている、河出書房「日本文学全集」では、尾崎紅葉の名前は存在しておらず、最後の文語体作家は樋口一葉で、それも川上未映子氏による「現代語訳」がなされております。それほど、文語というものに我々現代人が遠ざかってしまったということでしょう。ちなみに、樋口一葉が亡くなったのは金色夜叉連載の一年前。日本文学全集の次の巻は口語文である夏目漱石で、彼は尾崎紅葉と同い年ですが紅葉没後にデビューしています。自分も、読み慣れない擬古文による雅俗混交体を、角川文庫から出ている山田有策によるガイド本を片手に、なんとか読みこなしたという程度の人間です。

 

 しかし、尾崎紅葉は明治最大のベストセラー作家の一人であり、そもそも「小説」のみで身を立てるということに成功した日本初のプロ小説家であり、『金色夜叉』は「流行小説」のはしりでした。読売新聞はこれによって部数を飛躍的に伸ばし、小説をむさぼるように読んだのは決して宜さんだけではありませんでした。それはメディアを含めて、大衆社会が誕生する萌芽の時期でもあったということができるでしょう。ある人は遺言として「金色夜叉の続きを棺桶に入れてほしい」といったほどです。

 

それは時代と場所、そして媒体を越え、様々なブームを巻き起こした。それは弟子たちによって描かれた続編(スピンオフ)や、芝居や劇、はては音楽までのメディアミックスを巻き込んで明治の終わりから、大正時代を通じて高まっていきます。その名声は昭和3年、改造社から出版され後の「円本ブーム」の嚆矢となった「日本文学全集」の第一巻が他でもない尾崎紅葉だったことでも、当時なお紅葉の人気が高かったことがわかります。

 

おそらく紅葉の起こしたブームの残響は明治から大正を超えて、昭和の末までは届いていたように思われます。そして、それが現在途絶えてしまった。おそらく現代のわれわれが抱える日本の断絶の一つだろうと私は思っています。その一つが文語文であり、尾崎紅葉はそれまでの近松、黙阿弥などの元禄文学のエッセンスをふんだんに作品に込めつつ、それを近代化へ向かう日本人向けにチューンナップして執筆しました。その意味で紅葉の作品の残響は、そのまま江戸時代の残響でもあったといっていいでしょう。山本夏彦は「文語文」の中で、それまでの文語文の伝統までは、尾崎紅葉は元禄文学の継承者であり、樋口一葉は清少納言から続く日記文学の最後の系譜であったことを指摘しています。

 

連載が開始した明治30年から、時を待たずして『金色夜叉』は他メディアに翻案、今の言葉で言うメディアミックスされていきました。しかし、その際において、原典にはなかった部分、また間違いや勘違いといったものも多く散見されます。それは当時当時の人々の持つ価値観が移り変わり、その価値観が作品に反映されていったからであることはいうまでもありません。それはもちろん「現在」の私たちも変わりません。だからこそ今回私は吉岡里帆という現代最も‘旬‘な女優を触媒にして、明治、大正、昭和にかけて、日本人の経済観、恋愛観などは大きく変化し、それに合わせて作品の解釈も変わっていきます。この連載は、一つの作品の翻案などを見ていくことでそれを辿っていくことができたら、と思っています。

 

大塚英志は、「物語消費論」において人が二次創作へと向かう理由を「キャラクターへの愛」から発し、その結果男性キャラクター同士が同性愛関係にあるというようないわゆる「やおい」といった原作の逸脱性すらを生みだしていくと書いています。『金色夜叉』が生み出された当時の翻案は正確には「二次創作」ではない。しかし、そこには小さな所で原作への逸脱が含まれており、そこから翻案者や読者の「なぜそう読み取ったのか」という欲望を知ることができると考えることもできます。そこで、それらの翻案を見ていき、なぜ翻案者とそれを受けとった読者や観客はそのように『金色夜叉』を「誤解」していったのかを見て行きましょう。

tofubeats「FANTASY CLUB」

Reviewed by神野龍一

クラウドにある情報が雨になって落ちるとき、誰かにそっと傘を差し出すような

 

2017年の現在、日本のテレビでは大手携帯電話のCMでjustin bieberの歌う「what do you mean?」が流れ、今年TWICEがデビューする。2年前のヒット曲と2年前のアイドルが現れ、もしかして昨年、トランプ大統領は当選しなかったのではないか?とすら錯覚してしまうのだが、それもまたpost truthなのかもしれない。

 

現在の証券取引で「High Frequency Trading(HFT)」という売買方式が拡大しているのをご存知だろうか。これは、人の意思を介さない電子的な取引をアルゴリズムによって極度に高速に(High Frequency)やりとりを知ることで利益を得るプログラムだ。数万分の1秒の僅差を争うこの取引方式は、サーバーの位置をなるべく証券所の近くに置く、プログラムの実行速度を上げるためにCのようななるべく「原始的な」言語でプログラムを作る、というレベルで速度を争っているのだが、実際にするのは単純で「株が上がるという情報が出ると同時に売り、下がるという情報がでると同時に売る。取引が始まって終わるまでの間に済ます。」絶対に負けない「後出しジャンケン」のようなものだ。

 

現在では、「判断力の速さ」だけが優先されるのかもしれない。「で、要するに何?」と飛び込んできたものを瞬時に切り捨てる、もしくは取り入れる。それが「どういうもの」なのか、「いい」のか「悪い」のかといった価値判断などは単なるロスでしかない。無尽蔵に飛び込んでくる情報を捌く。見た瞬間に気に入れば右にスワイプ!嫌いなら左へ(あれ、逆だったかも?)。そんな行為をひたすら繰り返して、自分の欲望を上回る供給が与え続けられていると、自分がまるで情報を食べさせられ続けているガチョウのような気分になってくる。何も考えずにただ目を開いている時、自分の何かはフォアグラのように肥大化し、鈍感になっているのだろう。

 

そんな時、もしかしたらそういう行動をとることが、現在においては一番クレバーなのかもしれないと思う。ある出来事について、一つの流れができそうならそれに乗っかる。終わるまえにしたり顔でサッと引く。ある人への攻撃が始まり、誰かが石を投げ始めたら後ろから投げる。自分もそれをしているかも(間違いなくそうだろう)。もしそれで傷ついたり、よしんば殺したとしても、その石のどれが相手を殺したかはわからない。今の速度では届くころにはそこにはいないし、石を投げたことさえ忘れている。「で、要するに何?」その速度の中でpost truthは流されていく。

 

そんな景色がいたるところで散見される中、冒頭「CHANT#1」ではこう歌われる「これ以上は 気づかないでいい」しかしそれは逆説的だ。我々はすでにそれを知っているのだから。そして、それぞれ少なくともその行為に加担すらしている。できるのは、見て見ぬふりをすることくらいだけれども、それすら加担かもしれない。「SHOPPINGMALL」は「何かあるようで何もないな」という場所だけれども僕たちはそれを利用するし、もしそれがなくなってしまったら本当に何もなくなってしまうだけになってしまうからといった消極的な肯定性でしか語れないとしても。そういった問いをかけられたときに、瞬時に答えを出すのではなく、ふと立ち止まって考えること。それが重要なのかもしれない。

 

だからこそ、ほんの一時間でいい。時間を割いて聴いて欲しい。

みんな忙しいってことはわかってるし、世知辛いこともたくさんあるだろう。もう、新しいものを受け入れるのもこりごりかもしれない。自分の中にすでにあるものを繰り返し、補強して支えてくれるものだけを摂取して生きていきたい。もう何も持ちたくない。部屋だって狭いし、HDだって限界があるし、音楽や映像のサブスクリプションサービスはもうほとんど「所有しない」ことにお金を払っているようにすら感じる。それでもいい。サブスクリプションでもいい。tofubeatsの「FANTASY CLUB」を頭から最後まで全て通して聴いて欲しい。

 

できればなるべく、曲の頭だけをかけて飛ばし聴きなどをしないで欲しい。もちろんそういった編集権は所有したリスナーが持つべきだし、前作までのtofubeatsのアルバム「positive」「first album」「lost decade」はそうやって楽しめるようなバラエティとボリュームに富んだ作品だった。それまでのLPレコードからCDのコンパクト化に加えての「頭出しのしやすさ」はアルバムの評価方法〜ビートルズの名盤が「sgt.pepper」と「abbey road」から「revolver」と「ホワイトアルバム」になるような〜を変えるほどのパラダイムだったし、もはや今やsoundcloudの波形の変化を摘んで聴いて一曲のサマリーをつかむ、なんて聴き方すらしていることは知っている。だけど、今回だけは昔懐かしいレコードの「トータルアルバム」のように、時間をかけてじっくりと聴いて欲しい。たとえばヴァン・ダイク・パークスの「song cycle」みたいに。

 

一曲目「CHANT#1」オートチューンドゥーワップがスクリューされたところからつながる「SHOPPINGMALL」そこからビートの残響がつながってYOUNG JUJUのラップがfeatされた「LONELY NIGHTS」。その最後のフレーズからそのまま「CALLIN」の冒頭へつながっていく。

後半の「WHAT YOU GOT」からリプライズのフレーズがそのまま「THE CITY」の冒頭へ。そして最後、冒頭へ帰ってくる「CHANT#2」まで。

曲と曲をまたいでつながるフレーズや、展開の見事さに驚くだろう。そしておそらくそれには必然がある。それはこのアルバムが都市と都市のような「点」だけを高速で繋ぐ作品ではなく、その間に存在する郊外の街並みや、ハードオフがあるようなロードサイドの景色を描いた作品だからだ。discover of suburban.

 

ここでtofubeatsは繰り返し「わからなさ」を歌う。そしてそのわからなさを歌うことで、それらの距離を測ろうとする。即断せず、割り切らず、そして繰り返す。さまざまなリズムで、さまざまなメロディーで。

「CHANT#1」の低速スクリュー、そして「WHAT YOU GOT」の倍速。同じ楽曲の構成でも、BPMが変わるだけで「同じ曲」ではなくなる。それは同じ材料(卵、牛乳、砂糖)を使ってもプリンとカステラが違うもののように、しかし明確にではなくゆっくりと変化していく。例えばそれは殊更に情報量を増やし、BPMを上げ、情報圧縮しがちな現在のJ-POPに対する一つのアンチテーゼとしても聴けるかもしれない。

 

さらに「WHAT YOU GOT」では中間でリズムがtrapのリズムに変化する。楽曲が途中でtrapに代わるのは、「first album」での「CAND¥¥¥LAND」でも使われ、なおかつ最近ではbruno mars「24K magic」や韓国のHeize「shut up&groove feat.DEAN」でも使われた手法でもある。様々な解像度で見ること。そして「ここ」だけではなく外を見渡すこと。

 

Sugar Meをゲストボーカルへ迎えたスロウナンバー「YUUKI」から、少し毛色が変わって「BABY」へ。しかし、「BABY」も決してテーマからは離れていない。ここにあるのも、お互いの不理解を前提としたコミュニケーションであり、しかしそれを認め、信頼し、自分の重心を相手に少し預けるような、ささやかながら大事な一瞬の気持ちの動きを5分のポップソングに仕上げている。そしてこれは「lost decade」制作時のソングライティングのエポックメイキングとなった二曲「touch」「No.1」の二つの要素が重なり合った曲でもある。

正直なところ、自分はもっとこの「lost decade」前のtofubeatsの歩みを、もしメジャーの場でできていたら、と思うことがあった。サンプリングを脱し、楽曲構成や音の整理など、この時期のソングライティングの成長のプログレスを同時体験できた人たちが、自分の周り以外にももっと大勢いたら、と。しかし、それが杞憂に過ぎないことを本作を聞くことで反省した。過去を振り返るのではなく大事なのは「今、ここ」から自分を更新し続けること、作り続けることだ。「FANTASY CLUB」の示した一つの到達点は、それを自分に教えてくれた。

 

「OPEN YOUR HEART」はアルバムのインストナンバーの中でも、最もtofubeatsの、いやむしろdj newtownの作風を思い出させる楽曲だ。当時、J-POPや歌謡曲をサンプリング、エディットしながら制作された楽曲は、自分にまるでイカロスの姿を想起させた。郊外のニュータウンで制作された楽曲の、J-POP全盛期、90年代まではこの国にかつてあったはずの輝かしさ、明るさについての焦がれるほどの情熱。そこにオートチューンやサンプリングという「蝋の翼」を用いて手を伸ばしていく。近づいていくごとにその翼は焼かれてしまうことを知りつつも、身を焦がして手を伸ばしていく姿。それは、肉眼では見ることができないけれども、太陽に最も近い惑星である「水星」に至る一つの大きな軌道だった。

 

そして地元神戸の依頼を受けて「THIS CITY」人口増加を願って転調を繰り返して上昇していくメロディーや、8小節ごとに音色を変えていくこの楽曲に、かつてあった、tofubeatsの友人ある曲をフラッシュバックしてしまうのは、さすがに自分の思い込みが見せた景色かもしれない。それも一つの「post truth」として。

「わからない」のは「どちらでもない」のと同時に「どちらでもある」からだ。明確さに流れず、答えのない割り切れなさを抱えること。世界を分割しようとするナイフに抗い、無色の混沌とした存在である自分を受け入れること。それは長調でありながら短調でもあるような(ブルース!)、3拍子でありながら4拍子でもあるような(ファンク!)、男でありながら一方で女でもあるような(クラブミュージック!)混沌としたものを抱えながら生きていくこと。そしてポップミュージックはいつでも、マジョリティでありつつマイノリティーである人々のために奏でられてきた。このアルバムが、そういった心に何かを抱えた人、階段の途中で立ち往生をしながら考えいている今の人にとって、寄り添いを与えるような作品になるだろう。

 

少し長く語ってしまった。「で、要するに何?」と言われたら、自分はこう答えるしかない。

「僕は今、『FANTASY CLUB』を聴いている」

20170403-tofubeats

kansai socal radio 20170506

download

久々の関西ソーカルラジオ更新!

今回からイラストをもりさんに描いてもらいました!

  • 佐々木希さん結婚おめでとう
  • 最近のテレビ(フリースタイルダンジョンなど)
  • カルテット
  • 「FANTASY CLUB」良い
  • 仕事
  • 誠実だったらいいのかよ
  • 相撲取りの息子たち
  • WEBにも書きました
  • 高城剛podcast
  • スウィート17モンスター
  • もちろんと三国志バトル
  • 芸能界
  • 美女と野獣
  • 関西ソーカルvol.4起動
  • エッセイストになりたい

 

[再掲]神戸詩人事件

この原稿は2013年関西ソーカルvol.1「関西人物列伝」に掲載したものを再掲しています

亜騎保〜逮捕された詩人

 

山師のやうな

ホホヅキを鳴らし

貝殻派の下宿に

アミダをひけば

ポムプをになつた牡猫と雄鶏がでてきたり

オンドリをくはえた伊勢名物のセルパンが

職業的に啼いてゐたりした

二階のパイプ磨きがユタンポにぬくもり

安価な気候に於て些少のタビを考えた

藪ン中を歩く修身の午後よ

眠らないでをくれ

(「レモン畑の意地悪」より抜粋)

 

この、シュールでありながら作者の伸び伸びとした想像力を活き活きと感じさせる詩を書いたのは亜騎保という、大正4年生まれの詩人だ。

彼は昭和の初期から詩人としての活動を開始し、当時の勃興しつつあったモダニズム運動、シュルレアリズム運動に呼応しながら、独自の視点でそれらを咀嚼しつつ、輸入技術にとどまらない日本的な風土というよりかは、一つ上の世代である稲垣足穂「一千一秒物語」にも似た、当時の新開地を中心とする神戸の異人や、怪しい物売り、貧しい人などが入り乱れた騒々しい、がやがやした突拍子もなく、しかしどこか牧歌的な雰囲気を感じさせる自己表現としての詩を書き続けた。

様々な詩誌を送り出し、旺盛な活動をしていた亜騎の活動はしかし、昭和15年に一旦思いもよらない形でストップすることになる。それが、「神戸詩人事件」である。

 

神戸詩人事件は1940年、詩誌「神戸詩人」に参加していた詩人14人を検挙。発案者であった小林武雄や竹内武男はもとより、参加者であった亜騎も同様に逮捕される。

これは、シュールレアリスム運動の本場であるフランスで、運動参加者たちがこぞって共産党に入党したりした(これは批判をかわすためのポーズの意味合いが強かったらしい。後に運動の主導者であるアンドレ・ブルトンは除党)ことで、シュルレアリスム=共産主義者というレッテル貼りをした兵庫県警特高課によって、打倒天皇制を目論んだとのデッチ上げを食らい、結果として、亜騎は懲役2年、執行猶予3年という厳刑を受けることとなる。しかし、この亜騎の詩のどこをとってみても、そのような反体制的な態度など微塵も感じることのない。

「アウシュビッツ以降詩を書くことは犯罪だ」と言ったのはアドルノだが、戦時中の治安維持法があったころ、このような極めて非政治的な作風である詩人でさえ一旦当局に目をつけられてしまうと、罪を被せられることなどいくらでもありえたということだ。一説によると、シュルレアリスム独特の奇異な言い回しが、「反体制派の暗号ではないか」という疑いすらあったらしい。そしてそれは、新たな文化運動、芸術運動を目論む若者たちに対する、他の者からの奇異(時には嫌悪を持った)な目線によって排除されてしまうことも度々ある。

現に2010年代には、大阪や福岡など地方を皮切りにどんどんクラブへの規制が厳しくなっており、経営者たちが「ダンスをさせた」という罪から検挙される例が起きており、それについての是非が問われていた。その結果大阪のクラブが軒並み閉店と営業時間の短縮を余儀なくされ、大阪のクラブカルチャーの活動は一旦停止されているか、ほぼ死んでしまっているといってもいい状態となっていた。その後、風営法の改正と同時に一部の認可店は営業を許可されるようになり、公式に「国際都市にナイトライフは欠かせない」というにあたって筆者は戦後すぐに教科書に墨を塗った小学生のような気分にすらなったものだった。

「詩を書くこと」と「踊り続けること」、それでも戦時下において反戦的な詩を書き続けた反骨の詩人金子光晴のように活動をすることはできないまでも、「反戦」「反政府」のようなメッセージやもちろん「体制寄り」の立場に立たなくとも、そのような気負いなく、自由に行動し、言葉にすることができる世の中であって欲しいと心から願う者の一人として、このような事件があったという事実、それに巻き込まれた詩人がいたことを語り残しておきたいと思った。

足立巻一「親友記」には、勾留から戻ってきた亜騎から、普段は本音を吐くことの滅多にないこのシャイな詩人の、このような一言が残されている

 

「取り返しがつかん、の一言に尽きる!」

 

大阪、本町にあったクラブ「nuooh」。多くの若手DJや新規イベントなどが行われたこのクラブも同じように風営法からのクラブ規制で営業時間を短縮され、フロアにはテーブルや椅子が設置された「飲食店」となった後、2012年5月閉店を余儀なくされた。その最終公演、関西若手No.1DJオカダダの入魂の四時間ノンストップのDJを聞きながら、僕自身このような現状に怒りを禁じえず、フロアにあるテーブルや椅子を端に放り出してしまった。一旦終わってしまったものは、前と同じようには取り戻せないのだ。

 

参考資料『兵庫の詩人たち』君本昌久・安水稔和編 神戸新聞出版センター

『親友記』足立巻一 新潮社

神戸新聞の記事より

小沢健二「流動体について」を読み解く by神野龍一

2月22日にリリースされた小沢健二の新曲「流動体について」は発表されるやいなや多くの人を戸惑わせました。19年ぶり、前日youtubeで発表という突然のシングルリリース、CDのみの販売で配信なしというまるで90年台当時、NYへ飛び立った直後のようなスタイルでもって発表された新曲は、大きな歓待とオリコン2位という快挙を成し遂げつつ、多くのリスナーは未だにこの曲に対して困惑を続けているのではないのでしょうか。

しかし、小沢健二の音楽活動は昔からそうでした。アンファンテリブル(おそるべき子供たち)として現れたフリッパーズ・ギターを解散してからの沈黙、そしてソロ「犬は吠えるがキャラバンは進む」から現在に至るまで、リスナーを最初にビックリ戸惑わせ、しばらくしてからその意味がわかってくるという遅効性のインパクトを与え続けています。リリース時「今夜はブギーバック」が後々まで日本のある文化側面を代表する曲になるとだれが思っていたでしょう。2015年ceroの「obscure ride」がリリースされ、冒頭で「Contemporary Eclectic Replica Orchestra」という歌詞を聴いてようやく「ああ、小沢健二の2003年に出たアルバム『eclectic』はそういうことだったのか」というのが腑に落ちる。このタイムラグ、実に10年以上。しかしだからこそ未だに根強いファンがいるどころか、NYに旅立ってからほとんど目立った活動をしていなかったにもかかわらず、さらに新規のリスナーを獲得し続けているのでしょう。

今回はリリースされた本作について、小沢健二のリアルタイム世代ではない85年生まれ、決してそこまで小沢健二について詳しいわけではない筆者が、彼の活動およびその周辺などを眺めながら本作「流動体について」を読解するという仮説です。一体彼は本作で、何を言いたいのか?タイトルの「流動体」とは?「平行世界」とは?そしてなぜ「カルピス」を飲むのか?そして最後に彼はサイトで「裏切り」を口にしたのか。順を追って述べていきます。

楽曲について

歌詞の中のストーリーの概略はこうです。「1番:飛行機で羽田へと着陸し、音楽が流れ、その時もしも違う人生を選んでいたら?ということを思い浮かべる、そしてカルピスを飲む。2番:港区をドライブしながら昔の恋人の家の近くを通り、彼女を選んだ場合の人生を思う。そしてカルピスを飲む」(書いて思い出しましたが、一番は村上春樹の「ノルウェイの森」に似てますね。2番は東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」っぽさもあります)

シンプルな8ビートのリズムのドラムを下敷きにしたロックンロールのビートで作られたこの曲は、2016年のライブツアーで発表されたのを聴いたときの印象は正直、「発表された他の曲に比べてシンプルで随分地味だなあ」というものでした。しかし、CDを購入し、流麗なストリングスが付いた本作を聴くと、本作が小沢健二のソフトランディングのための楽曲だったということがわかり、印象が一転しました。イントロのストリングスはまさに、小沢健二が最後にリリースした楽曲「ある光」(厳密にはラストシングルは「春にして君を想う」ですが当作にもカップリングとして「ある光」が収録されています)の続編であり、「ある光」が日本をテイク・オフし「JFKを追」ってNYへと飛び立つことを歌った歌であったことに対し、こちらは羽田へ上陸した、つまり堂々とした帰還宣言をした楽曲だということです。それではこの曲について踏み込んでいきましょう。

タイトル「流動体について」とは?小沢健二の過去作から

はたして「流動体」とはなんでしょうか。デジタル大辞林には「流体」の同意語として「外力に対して容易に形を変える性質のもの」とあります。この変化するもの、変化しうるものというテーマは常に小沢健二が歌う基本テーマになっており、ソロデビュー作「犬は吠えるがキャラバンは進む」のセルフライナーノーツ(現在は削除され「dogs」と改題)でも同じようなことを言及されています。

まず僕が思っていたのは、熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。

おそらく「流動体」とは、そういった「一定でいれないもの、変わらずにはいられないもの」を指し示したもの、そしてそれは時間によって影響されてしまうすべてのこと。また、福岡伸一が「生物と無生物のあいだ」で語ったような「動的均衡」、食べたものの分子を取り込みながら細胞を刷新し、常に変化しながら、変化するという形で残り続ける生命活動そのもの、つまり「自分の生(まさにLife!)」であろうと僕は考えます。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし(方丈記)の無常観。「ユースの終わりを痛みとともに」知っていた小沢健二はそれこそデビュー当時から、自身の変化についての痛みを唄い続けていました。フリッパーズ時代は「抗い」として。そしてソロ以降は「肯定」として。タモリが激賞したことでも知られる「さよならなんて云えないよ」のフレーズは、ランボーの「見たんだ!何を?永遠を!海に溶けていく太陽!」にも似た瞬間瞬間の輝きへの肯定と、それが離れていくことの痛みを捉えた名フレーズだと思います。

「平行世界」とは?周辺関係から読み解く

果たして、「平行世界」とはなにか?それを本作に参加しているミュージシャン、その周辺の関係から読み解いてみましょう。本作には、コーラスとしてハナレグミの永積タカシの他、シンガーソングライターである一十三十一が参加しています。一十三十一が以前他のアーティストにコーラス参加したのはceroの「Orphans」以来ということです。そこで、まずこの「Orphans」の話からしてみます。なぜなら、この「Orphans」こそがまさに「平行世界」を歌った歌として、本作とも深い関わりを持っていると考えるからです。

歌詞の概要はこうです、学校をサボった男女2人がバイクで海に行く、そこで2人は「別の世界では2人は兄妹だったのかもしれない」と思う。「平行世界」とはこういう「もし〜だったら」という仮説が存在している世界が実在すると考えた場合の、自身の人生における無限の分岐点を想像し、また現在の自分もまたその無限の選択肢の一つとして理解する態度に他なりません。そして、「Orphans」における一十三十一のコーラスは「別の世界」という言葉が出たときに現れます。ここでの一十三十一の声は「別の世界からの声」つまり平行世界からの声であると僕は解釈しています。そもそも「コーラス」は洞窟や聖堂などで合唱をしていた修道士が、反響した音の中から生まれた倍音の声を「天使の声」として理解したところから始まっており、このコーラスもまた「反響する他者の声」であります。また、この「Orphans」のカップリングには小沢健二の「Eclectic」の曲「一つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」のカバーが収録されており、相互のかなり強い影響関係を感じさせます。さらに本作「流動体について」でも一十三十一のコーラスの歌い出しは「もしも」であり、この楽曲における一十三十一の声も同じ「平行世界からの声」という役割を背負ってると考えてられます。

なぜ「カルピス」なのか?彼の活動から読み解く

そして最大の謎、「なぜカルピスを飲むのか?」です。本作では歌の最後に必ずカルピスが言及されます。このカルピスは一体何を意味しているのか?これを読み解くために、先ほどのテーマであった「平行世界」的な想像力が鍵となります。つまり、「もしも飲んでいるのがカルピスでなかったのなら?」と想像、もといソーゾーしてみましょう。例えばここで飲むのが他のドリンク、例えば「コカ・コーラ」だったら?コカ・コーラを飲む小沢健二。みなさん想像できますか?「アメリカ」や「グローバリズム」「ロックンロール」を代表し、日本語ロックの嚆矢となったはっぴいえんど「はいからはくち」でも「こかこおら」とひらがなで歌われたコカ・コーラ、もしこれを歌っていたらそれはあまりにも意味が多層的過ぎます。これはほとんど「裏読み」に近い読み方ですが、少なくとも現在の小沢健二は「コカ・コーラを飲んでいない」こと、それが重要なのだと思います。現在彼が反グローバリズムについての活動を行っていることは知られていることですし、また発売日に載った朝日新聞の広告には食パンなどを指して「日本のガラパゴス文化」を褒めています。そういった考えの末、日本でしか販売されていない「カルピス」(厳密にはアメリカでも販売されていますが、「カルピコ」と名前が変えられています)を取り上げたのだと思います。グローバリズムではなくガラパゴスへ。

想像を続けます。もしかしたら、この「流動体について」という楽曲自体が、「あのまま活動を続けていたらいたはずの自分」としてのメッセージなのではないでしょうか。そして、突然の来日に加えたゴールデンタイムのニュース番組や音楽番組などの怒涛のテレビ出演などがまさにその「もしも」の仮説の検証であったとしたら?そう考えるとアメリカへ再度飛び立った後、公式サイトに書かれた、「僕は今回『流動体/神秘的』を良いと思ったような人たちを、恐ろしい言葉ですが、一回裏切ってしまったのだと思います」という言葉が、リリースされた楽曲を素直に購入し、テレビ出演をあまりに素直に「おかえり小沢くん」と喜んでしまった我々への言葉として、少し腑に落ちる気がします。

若さの中で、「そのままでいたい」と防衛的に思っていた若者が、「ヘッド博士の世界塔」という自分の好きなものだけで作り上げた迷宮のようなアルバムを組み上げた後に世間の前から消え、再び一人で現れたとき、後ろを全く振り返らずに、傷つくことを覚悟して時代の矢面に立った。それは一切ブレーキペダルを踏まずにアクセルを蒸し続けるような一種の「蛮勇」であり、ガソリンが尽きるまで走り続けるドラッグレースだった。そうして刀折れ矢尽くまで唄い続けた彼の姿は、今振り返ると日本の90年代の最後の明るさとその終わりの刹那を体現していたように思います。そこからNYへ飛び立ち、世界を旅してきた彼が見たものとは一体何なのか。そしてこれからの彼が何を伝えようとしているのか。今回の「流動体について」の解釈もあくまで個人的な仮説です。「流動体について」の歌っている多くのことが「ああ、そういうことだったのか」と本当に腑に落ちるのは、また10年以上先なのかもしれません。

 

91NweolWm9L._SY355_

review:「SHOPPINGMALL」by小鉄

tofubeats「SHOPPINGMALL

 

何かあるようで何もないな?

 

 tofubeatsもリブログしていた都築恭一の郊外論は、中途までは「ふ~ん」と目を通していたが、地方で洗練されたクリエイティビティを追及するのを「暗い気持ちになるんだよな」と結ぶ段でバッキリ。そりゃおれも自然栽培のパン屋云々、アートで町おこし、イノベーション、地域プロジェクト、地方活性の類に何の面白みも感じていないし場合によってはハッキリとバカにしているが、「イオンと軽自動車とカラオケボックスみたいな」ものが豊かさの天井という環境で、実際に、ただ飯を食い、ただ息をし、ただ生きているこちらとしては「そういうものより田舎らしい文化のほうが部外者としては面白い」などと言われても、それは大層雅なことでございます、とイヤミの一つも言いたくなる。

文中にある通り、そりゃ全国津々浦々のヒップホップ・シーンの、東に西に南に北に耳を貸すべき佳作はいくつもある。しかし地方の若者のクリエイティビティが全部フリースタイル・ダンジョンに収斂されて行くことをおれは望まない。何がリアル何がリアルじゃないかそんなことだけで面白いか????面白くねーわ!!!!!!!!!

 

何かあるようで何もないな!!!

 

 昨年の冬に見たKohhのライブは面白かった。ライブ終盤のKohhのMC。細かい言い回しは違うかも知れないが、以下のような内容だった。「高知や徳島から来たお客さんもいると思いますが、ここ、香川……香川のお客さんどれくらいいます?」客席のほとんどが挙手。「その人たちに訊きたいんですけど、地元である香川……地元、香川が好きだぞっていう人……どれくらいいます?」客席から歓声。「俺の地元は王子っていう所なんですけど……俺は王子が好きです。俺の地元なんで……皆さんにとって、地元の香川が好きなように、俺にとっての地元の王子が俺は好きです」歓声。「こうやって日本全国周ったり、外国行ったりもするけど、好きな町は結局地元!」ここから『結局地元』を歌いだすKohh……というシーンが最も印象的だった。

 

 

 俺の地元が一番である。そして、他の地元の奴らにとっては、そいつの地元が一番だと思ってる。俺にとって、俺の地元が一番なように。昨年末、王子で行われたKohhのライブで、Kohhの地元の友達が「世界に一つだけの花」のカラオケを披露したことはこれと繋がっている。これマジ。

 

何かあるようで何もないな……

 

 ここ数年のヒップホップ・シーンを覆う巨大な暗雲としてのトラップ。その源流を辿れば90年代のアトランタやメンフィスのギャングスタ・ラップに行き付くが、あのBPM130前後(あるいは半分のBPM65前後)の奇妙なビートはなぜ生まれたのか?これは予想だが、一般的なBPM70~90前後のヒップホップのトラックに対して「もっとラップしたい、おれはまだまだ喋りたいことがあるんだよ」という欲望が、BPMを引き延ばし、1曲でラップの乗る容量を拡大したものがあのビートではないか。初期のThree 6 Mafia、Tommy Wright III‎やNiggaz Of Destructionなどの強迫的にビートの隙間に3連フロウでリリックを詰めるラップを聴くとそう思う。

 

 

 ところで……時計を現在に戻し、トラップ~ヒップホップの最先端のハイプであるマンブル・ラップ。Lil YachttyやYoung Thug、Rich Homie Quanなどを筆頭に、崩された発音、iPhoneマイクに話しかけるような鼻声歌唱、単調に繰り返されるフロウを特徴とする。彼らへの称賛、あるいは批判は、シーンの重要な転換期に居合わせる興奮とも、近ごろの若いもんは調の小言とも様々に噴出している。マンブルとは「もごもごした、不明瞭な」という意味らしいが、口語的には「喋っている意味が理解できない」というニュアンスが強いようだ(最近、法廷ものの海外ドラマをよく観ていて、この語がよく出てくる)。まだまだ喋れるぞ、という意志によってトラックが引き延ばされて余年、積極的に喋りたいことはいよいよもう何もなくなった……というのがおれの見立てだが、果たして?

 

 

何かあるようで何もないな。

 

 僕が初めて付き合った女性は、サブカルチャーやアートにまるで興味がない子で、ある時「私、これから生きてても、CDって10枚も買わないと思う」とニコニコしながらおれに言った。他にも、飲食店で流れているBGMについて「英語の歌って、自分のわからない話をずっとされてるみたいで不安になる」とも言っていた。彼女はまじめな倹約家で、地元のイオンで働いて得た収入のほとんどは貯金に回していた。彼女は30才までに子どもを産んで家庭を持つ夢を持っており、また、その夢から逆算して自分の人生をカウントしていた。それは29歳で妊娠、しばらくは夫婦二人の結婚生活を3~4年楽しむ、25歳で結婚、そのために22~3歳には結婚相手と出会って恋愛をしていて……というもので、おれはその計画の遠大さ、壮大さにめまいを起こしその場にブッ倒れた(今も起き上がれない)。

 

 彼女が夜番の仕事のときは、彼女のバイトする店(ワンオペだがあまり客は来ない)の閉店作業も手伝った。照明が落ち、すべての店舗に防犯用のネットがかけられ、エスカレーターも止まり、昼のにぎわいが嘘のように静かなイオンで、おれはたしかに、音のないテクノを聴き、音のないヒップホップを聴き、音のないヴェイパーウェイヴを聴きとった。それはshoppingmallに似ていた。

 

ネオ青空カラオケシーン byオノマトペ大臣

都会のクジラが鳴いている。JR大阪駅構内の広い空洞を南に向かうと次第に大きくなっていく音。人々の群れとお喋りの間を木霊するボヤけた反響音は、巨大生物のいななきに聞こえる。

構造物を抜けて、都会的な灰色混じりの空が顔を出した瞬間、目に飛び込んでくる小型のスピーカーとマイク。ようこそ、ここは関西最大の都市、大阪梅田。頭上に広がる天体を版画で刷って写したようなこの街では、光を集める巨大構造物に寄り添うように、塵のような小さな人々が存在する。惑星の引力から逃れられない衛星のような彼らは、歌という自己表現を反響させて宇宙の隙間を埋めている。この街の衛星、ストリートミュージシャン。名も無き月が今夜も地上で輝いている。

今、梅田には至る所にストリートミュージシャンが存在する。10年ほど前、彼らが活動する場は限定的であった。JR大阪駅と阪急百貨店、阪神百貨店までを繋ぐ大きな歩道橋である新梅田歩道橋(のちのよろこびっくり橋)の上、またそのちょうど中間地点の御堂筋線乗り口前の地上。当時警察のチェックも厳しかったこともあり、これらの場所がせいぜいであった。大層な機材を運び、大きめのスピーカーから音を出す四人のバンドマンたちは、玉石混交ながら、圧の高いパフォーマンスを肌で感じさせてくれるモノが多かった。

時が経ち、折りからの再開発を経過して、梅田の街はすっかりと変わった。巨大なビル群の大幅な増加で、商業圏も拡大し、分散。全てが都会的で清潔になった。阪神、阪急、JRの緊張関係の中心にあった新梅田歩道橋、そこに溜まったエネルギーの象徴であったストリートミュージシャンも、分散する商業ビルの磁力に引っ張られて半径1キロ圏内の地上に散らばって行く。

現在、梅田のストリートミュージシャンの活動地点は、私が把握してる限り、以下の場所となる。
HEPのすぐ前、HEP前の横断歩道を渡った阪急側、JRと阪急百貨店を繋ぐ横断歩道の阪急側、ナビオと阪急百貨店を繋ぐ横断歩道の阪急側、グランフロントうめきた広場、JR大阪駅一階ヨドバシカメラ側、そして冒頭に記述したJR大阪駅一階大丸百貨店側。
一箇所の音を聞き、次の音を聞くのに5分もかからない位置で濫立している。本当に今の梅田はストリートミュージシャンのメッカとなっており、この点はもう少し認識されるべき文化的事象であろう。
しかも、このミュージシャンたちには二つ大きな特徴がある。一つ目はカバーが多いこと、二つ目はソロ(歌のみ)であること。機材の小型化と音楽の潮流が相まって、ポータブルなシステムでのお手軽な歌唱が中心となり、そのことがまた数の増加(とそれに伴うクオリティの上下)に寄与したと思われる。

秦基博のひまわりの約束、一青窈のもらい泣き、この二曲は現代の梅田のソウルミュージックと言っても過言では無いほど、日々ストリートでカバーされている。その他、平井堅や、星野源、果ては三代目J SOUL BROTHERSまで。ジャンルの垣根はなく、テレビで流れる曲が原曲を忠実に再現した打ち込みトラックでカバーされており、極端な場合はCDシングル収録のカラオケバージョンがそのまま流されている。オリジナル曲や、その人の音楽的個性が色濃く反映された通好みの楽曲が歌われることは少ない。
極めて純度の低い表現欲求が極めてイリーガルな活動(JASRAC、警察機構 に対して)に帰結したこの現状は、かつてのある文化を思い出させた。それがタイトルにもある青空カラオケだ。

tennouji37

青空カラオケとは、大阪市南部の中心地、天王寺にある天王寺公園で30年に渡り存在し続けた野外のカラオケ小屋群のこと。2003年に強制撤去されるまで9軒が軒を連ねていたそうだ。
青空カラオケは、良くある防音扉と壁で仕切られたカラオケ屋と違い、文字通り青空の下にスピーカーを出し極めて簡素な小屋から、野外に向けてその音を響かせるスタイルであった。ジャマイカの路上サウンドシステムを思わせるそれらは、当時のご当地の雰囲気と相まって、混沌とし、そら怖ろしく感じられたものだ。客層は年配の人間が多く、何かを表現したいというよりもむしろ純粋にただ人前で歌いたいという感情が煮詰まって、吹きこぼれたようだった。
青空カラオケは、既得権益と法のパワーバランスによりその存在を綱渡りで成り立たせていたが、2000年代初頭に大きく報道されたことにより強制撤去へと至っている。

それから10数年が経ち、ほんの10キロ離れた梅田の路上を「歌ってみた」世代の若者たちが賑わせている。恐らく彼らは、青空カラオケのことを知らない。
しかし創作能力やスキルフルな技術の発露、稀有な音楽性の世間への問い掛けなどではなく、プリミティブな自己顕示欲とより強い関係を結んでいるように見える彼らのパフォーマンスは、新梅田歩道橋にいたバンドマンの継承と言うよりもむしろ、天王寺公園という場を追われた青空カラオケシーンのアップデートに感じられてならない。歌のクオリティもほとんどが推して知るべしの状態なので、これをカラオケと違うと見ることが出来ようか。天王寺から少し離れた梅田の地で、現代の青空カラオケは形を変えて息づいている。

HEP前、下手くそな秦基博を目を閉じて歌う青年を三人の若い女の子が取り囲んでいる。東京みたいに綺麗な梅田の街で、大阪の猥雑な月を眺めている。

kansai socal radio特別編「ラ・ラ・ランド」を語る!

公開されるやいなや、前作「セッション」以上に賛否両論を巻き起こした

ダミアン・チャゼル監督作品「LALA LAND」

アカデミー賞での取り違え珍事や、菊地成孔の酷評レビューなども含め話題になっている本作を関西ソーカルの2人、オノマトペ大臣(支持派)神野龍一(否定派)の2人で語り合いました

2月15日イベントのお知らせ

プロダクトークアウト
月亭太遊・オノマトペ大臣・神野龍一プロダクトークアウト!

関西ソーカル、上方落語、PR0P0SE…新作を作ることによる文化イノベーションの可能性について
■内容
新作落語や雑誌、音楽活動などを通じて。現在においての新作をつくることの意義や、その可能性についてを語らう会
神野龍一とオノマトペ大臣が行なっている「関西ソーカルラジオ」
月亭太遊と神野龍一による「bar moon palace」の合同企画です。
第一部
トーク:新作落語の現在
イノベーションを続ける意義

第二部
新作落語、その実践と解説
落語一席披露

2月15日

7時15分開場
7時30分開演
9時45分終了

■料金(チャージ、予約料金・当日料金、1ドリンク付など)
1500円(1ドリンク付き)

■お問い合わせ&予約受付先

■プロフィール(講師、出演)
月亭太遊
落語家。2010年に月亭遊方に入門。2013年にはNHK新人演芸大賞に出演。落語とメタルや、ラップを融合させた新作落語などを発表している。
オノマトペ大臣
ラッパー、会社員。2012年tofubeatsにfeatされた「水星」はインディーズながらiTMS総合チャート1位という快挙となる。他、PR0P0SEやトーベヤンソン・ニューヨークなどの音楽活動の他、雑誌関西ソーカルの主宰として執筆活動も行なっている。
神野龍一
ライター、上方落語レビュワー
関西文化の活性化を目指し、自身が主宰している雑誌関西ソーカルが京都新聞や朝日新聞に取り上げられるなど、これからの活動が最も注目されるライター。