review:tofubeats「TBEP」

本作は今年刊行予定の「kansai socal vol.4」に掲載する「tofubeats論」の草稿の一部である。

CLAVA et VITA

 

本来、自分はこの作品をレビューする資格がない。なぜならクラブユースのハウスEPをクラブで聴かず、部屋のスピーカーやイヤホンで聴いているというのは、自粛中のレストランのメニューをubereatsで「お取り寄せ」して食べているようなものだからだ。しかし、そうも言ってられないのはみなさんご存知の通りで、クラブやライブハウスがかつてのように営業することが可能となる日は正直なところ見通しすら立っていない。

 

tofubeatsの「TBEP」はその名の通り、氏のEPとしては「STAKEHOLDER」以来の二枚目のEP。名前そのままという作品だと「First album」以来。二曲のみがボーカル曲だがそれもそれぞれ歌までには1分以上の時間がかかるクラブ使用になっている。いわゆるポップスだと冒頭一分以内にいわゆるサビがこないといけないというセオリー、いまや配信時代になると「サビはじまり」でないといけないとさえ言われている時代でこの選択は英断、見る人によっては蛮勇にすら映るかもしれない。しかしそれでも、この選択を選んだということに、tofubeatsが「クラブミュージック」を出すことの意義だろう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=NOMoFp-u-J0

 

 

先行してMV公開された「SOMEBODY TORE MY P」は国吉康雄※1の「誰かが私のポスターを破った」にインスパイアされたインストナンバー。

 

tofubeatsの作る楽曲は、例えばseihoやmetomeの楽曲が360度からの視点を意識したようなオブジェ的、立体的なイメージを連想させるものが多いのに対して「平面性」が強いように感じる。それは日本庭園の視点の固定性などを例にした日本的なフラットさとも言っていいし、ある種の「作りもの」であることへのこだわり、背景画が裏側から見るとベニヤ板である、といったような本人の嗜好性からくるものでもあるだろう。※2それはただ平板だというのではなく、テクノナンバーになると一つの物質性を伴って顕在化する。ちょうどまるでジャスパー・ジョーンズが旗や紙幣などをキャンパスで描くことで絵画の平面性を暴いたような、そんな印象を受ける。※2また、「誰かが私のポスターを破った」も絵画の中に人物画と共に背景に破られたポスターとしての「絵」が作中作として挿入されており、平面空間に2つの対象が交差するという構図になっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=CBKQoqTI2iE

 

 

意味深なタイトルと映像のコラージュで様々な憶測だけを呼ぶ「陰謀論」。「踊らされていた」という歌詞でダンスミュージックを歌う今作を語るに、前作「ふめつのこころ」を制作した際に参考になったという國分功一郎「中動態の世界」が参考になるだろう。少し、本書の内容を説明すると、動詞には「する/される」という「能動態/受動態」の関係性の間にかつてギリシャ語では「中動態」という状態を表す用語があったこと、そこから掘り下げていくとかつて動詞は「中動態/受動態」の対称であったものが能動態へと移り変わっていったことを哲学的に掘り下げていき、それを現代の依存症の問題や暴力と権力の問題、現代的主体のありようにまで広げていく、という内容である。

 

「中動態」を説明するのに一つ例を出すと、イソップ童話の「北風と太陽」が最もわかりやすいだろう。北風が風によって無理やりコートを脱がそうとするのが受動(暴力)的な行為であるのに対して、太陽が暑くすることで旅人が自分から脱ぐように仕向けさせるように働きかけるのが中動(権力)的な力の加え方ということができるだろう。もちろんイソップことアイソポスが古代ギリシャ人であったということは言うまでもない。

いうなれば「踊らされていた!」と歌う「陰謀論」はそういった音楽による「踊り」への中動態的な働きかけを歌っている、ということもできる。

「踊る」という行為は主体が曖昧なものであるということを自分も以前l書いたことがあるが、そもそもレビュー(批評)という行為自体が、踊りと似たようなところがある。作品を前に何かを語り、それ自体が作品でもあるという批評行為自体が、音楽を前に自身がなにかを表現しているダンス行為と相似形を成している。時にそのダンスが音楽のリズムも拾えていなかったとしても、ダンスそのものの見事さで成立してしまったりもする部分も含めて。※3

https://www.youtube.com/watch?v=liVy1B3ENYc

 

クラブの良さを行ったことのない人に伝えるのは非常に難しい。映画やドラマなどで出てくるクラブシーンの滑稽さは古くは「三年B組金八先生」のディスコシーンから延々と続いている。ちなみに濱口竜介監督は「ハッピーアワー」とtofubeatsが音楽を担当した「寝ても覚めても」の二作連続でクラブでのシーンを入れているが、その意図はよくわからない。「寝ても覚めても」のクラブシーンも、「ショボいクラブ」としてクラブシーンを撮ったのか結果としてああなってしまったのかは解釈の幅がある。

「クラブ」で歌われる淡い期待感。それは自分たちが普段通っているクラブの景色にほかならない。よくシティポップやパーティソングで描かれるクラブでは、華やかな空間で音楽が流れ続け、友達と再会しシャンパンで乾杯みたいな歌詞が登場するが、普段自分たちが行くクラブはそんな空間ではない。そもそも薄暗く、決して綺麗でもない、後半になるど誰かがこぼしたドリンクのせいで床がベトベトになり、酔いつぶれた客がトイレでしがみついていたりする場所がクラブだ。でもそんな場所に自分たちがなぜ行くのかと言うと、おそらく紛れることができるからだろう。闇に紛れ、人に紛れ、音楽に紛れること。自分にとってそれは「ハレ」の日のような特別なものではなく、日常の延長にあるからこそ安らぎを覚える。クラブの良さとは中の空間と同じくらい、クラブの入り口で聞こえるキックの重低音の高揚感や、クラブが終わったあとの早朝の景色、例えば京都メトロが終わったあと、丸太町から四条までを鴨川沿いに歩いて帰るときの湿った涼しい風の感触までのすべてがクラブの風景だ。

こうして書いていると、本作が早くクラブの現場でプレイされる日を願ってやまない。その場ではどんなことでもできるのがクラブの一番いいところで、クラブだと本作含めライナーで書かれていたボツ作ももしかしたらかけられるのかもしれない。もしかしたら「ふめつのこころ」も聞けるかもしれない。

 

※1国吉康雄第二次世界大戦を挟んで前後アメリカで活躍した日本人画家。ちょうど時代としては同じ時期にヨーロッパで 活躍した藤田嗣治と対象的なところがある(特に第二次世界大戦後日本を支持する藤田とアメリカに立つ国吉など)

 

※2ただ一方で、不定形なもの、霧や雲や川といったものを音楽的に描写するのはtofubeatsは非常に得意であると思う。そしてそれこそが氏がJ-POPでも根強く支持される理由だろう。

 

※3音楽を理解しそれを踊りの表現として落し込んだ最も幸福な出会いの一つが、ローザスによるスティーブ・ライヒの音楽によるダンスプログラムだろう。批評が作品に貢献すべきかどうかは、少なくとも自身はそうありたいとは思っているが、必ずしもそうあるべきであるとは思わない。例えばピナ・バウシュは「オフィーリア」にある男性中心主義的な思想をフェミニズム的観点から自身のダンス作品で徹底的に破壊し尽くした。そのダンスをはじめた者を、のけ者にしてはいけない