四天王以降の上方落語1:桂吉坊

桂米朝笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治の戦後の上方落語を支えた「四天王」が世を去ってからはや数年。念願であった寄席小屋「天満天神繁昌亭」も10年をかぞえ、神戸に2号館である喜楽館も開き、上方落語は新たなフェーズに突入している。そんな中で、これからの上方落語を率いていく才能を取り上げていくシリーズ第一回

桂吉坊

吉坊の藝は瑚璉である。

 

もちろん氏を落語や特に上方落語を初めて観に行く方にもおすすめしたいが、同時に「歌舞伎を観てみたいが何を観たらいいか」と聞かれた際にも、自分はこう答えるようにしている。

上方落語、特に吉坊の芝居噺を観たらいいですよ」

芝居噺、というのは芝居好きが高じた商家や長屋の市井の民がそのまま日常の中で芝居の位置場面を、いわば「ごっこ」として演じる場面が入っている演目のことで、上方落語ではそこに「鳴り物」といわれる三味線や歌、ツケなどの音が加わる。

いきなり松竹座や南座の舞台を一万円近いお金を払って(!)観に行くよりはまず、落語の芝居噺を見たほうがむしろ、歌舞伎を「どう面白がればいいのか」という導入には向いている。

 

よく、吉坊は「正統派」と呼ばれる。事実、上方落語中興の祖である大師匠、桂米朝の家への住み込み弟子を経験し、その正統後継者と言われた故・桂吉朝の弟子である。両師匠がともに落語に留まらない歌舞伎、文楽、能などの他芸能への知識を有していたように、桂吉坊も芸能の知識と、それにもまさる藝そのものへの愛を有している。

 

氏が茂山千作市川團十郎竹本住大夫立川談志など錚々たる面々にインタビューした「桂吉坊がきく藝」では、これら重鎮を向こうに回して当時まだ若干二十代だった吉坊が、どんな話題が出てきても打ち返すばかりか打てば響くように戦後芸能の知識をまるでみてきたかのように補足している姿が記録されている。

 

 

知識だけではなく、長唄や特に上方舞で鍛えられた歌舞伎の身のこなしは、繊細にカットされたグラスのように、一点の曇りもなく我々に上方芸能の光を届けてくれる。

 

その透明度は、それだけではない。時に師匠や大師匠の姿すら現前に現れたかのように錯覚してしまう時がある。特に商家を舞台にした話の際、厳しく指導をする番頭が吉朝に、奥に悠然と構える大旦那が米朝であるかのように。自分のような四天王の現役時代に間に合わなかった人間からしてみると、それをみることも大きな喜びのひとつである。

 

そんな空間を丁稚である吉坊が、旦那や番頭に叱られながら非常に楽しそうに「遊んで」いく。それはすべてが藝そのものへの愛へと捧げられているように見える。落語を見てるとその人が女や、酒や、また金が好きであるなと思わせる噺家は多数いるが、吉坊をみているとこの人は藝そのものがどうしようもなく好きであることが伝わってくる。藝そのものを映し出す藝。その純度は、「正統」であると同時にいままでありえなかった形で存在している。

 

かつて英文学者エドワードWサイードが、グレン・グールドのバッハの演奏を「まさにその場で、バッハが音楽を産み落としたときのように、まるで即効のように演奏する」ことを、17世紀のスペインの小説家が描いた騎士道物語のパロディを20世紀に全く同じように書くとはどういうことかを描いたボルヘスの「ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」に喩えたが、それを21世紀の古典落語家としての桂吉坊にも言うことができるだろう。

 

また、その落語世界は小佐田定雄の書く「擬古典」の新作落語とも相性が良く、師匠吉朝に書き下ろした「身代わり団七」や「狐芝居」、本人にあてて書いた「ツメ人情」などの演目は、我々を古典芸能の世界に連れて行ってくれる。例えるならばそれは三島由紀夫の作品のようなもので、江戸時代から現在までの時間の流れの一続きというより、古典世界から遠くなってしまった我々現在の人々に対して、一旦切断をした上で、極めてバーチャルに古典世界を再創造している営みである。吉坊を安易に「正統」と言いたくない理由はそこにある。かつて立川談志が、自身の落語論のなかで「江戸の風」という、まだ観客が江戸時代の空気を体験していた世代から、それが遠ざかっていくにつれて「イリュージョン」へと形容を変えたように、いま古典世界を描くには一種バーチャルな方向を目指さざるを得ないのかもしれない。

 

ここまで吉坊の藝の上手さばかりを褒めてきたが、果たして落語がおもしろいかというと、もちろん面白い。特に技術に裏打ちされた会話のやりとりの軽妙さなど、藝に精通している大人世代だけでなく、むしろ若々しい頭脳を持った若者にこそストレートに届くものだと思っている。

 

自身の経験を語らせてもらえれば、少なくとも自分はそうだった。2014年8月、繁昌亭昼席でのトリ前で見た「商売根問」は立板に水のごとく流れていく言葉の心地よさに圧倒され、一気に氏に惹かれるようになったのだった。

その後見たのが、12月の京都府立芸術文化会館であった「ツメ人情」の根多おろし。後半に語られる藝とは何を残すことなのかという説得は、そのまま氏のあり方と重ねて感動をした。

 

また、2015年12月に繁昌亭で行われた三金(氏ももはや故人である)吉坊の二人会での「たちきり」「たちきれ線香」という名でも知られるこの上方落語屈指の大ネタの、最後の余韻の味わいと言ったら。一緒に見に行った友人と、ただただ「良かったねえ…」「良かった…」と繰り返すだけになってしまった。

 

2018年5月に見た朝席での「狐芝居」。忠臣蔵の場面、切腹の場面があまりにも良すぎてそのまま落語へ回帰していくのが惜しいとすら思えるほどであった。

 

そして同年9月に繁昌亭であった吉坊一之輔二人会での「身代り団七」での芝居の場面。夏祭浪花鑑の場面を演じているときの迫力は、芸能の神が降りてきたとしか思えないほどのものであった。桂吉坊の藝は神を降ろす瑚璉の器である。

 

他にも弘道館での「皿屋敷」。春団治譲りの歩き方の変化だけで道の雰囲気を一変させ室温が一度寒くなったかと思わせる妙や、昨年の独演会での「浮かれの屑より」が素晴らしかったとか、また近年どんどん貫禄をつけて変化していく氏の藝をみて、先月のトリイホールでみた番頭の視点が際立った「帯九」や、師の13回忌前に根多卸ろしをした「弱法師」がこれからどう変化していくのかが楽しみである。またそれをできるだけ多くの人にも体験してもらいたい

 

そんな氏の落語を、今月は多くのメディアで観ることができる。

 

まずは3月16日10時50分からのNHK

「落語ディーパー!~東出・一之輔の噺(はなし)のはなし~ 」

で「愛宕山」の解説と、放送後実演をネット配信で鑑賞可能に

 

また、現在コロナの影響を受けてほぼ日の学校オンライン

一ヶ月限定での動画無料公開をしている。

吉坊は「2時間で忠臣蔵たっぷりナイト ~芝居噺を中心に~」で

「質屋芝居」「狐芝居」「七段目」を

芝居狂いの人々 ~落語から知る、芝居好きの姿~」で

「本能寺」「蛸芝居」「浮かれの屑より」を観ることができる

 

4月17日11時からのNHK「にっぽんの芸能」にも出演予定

 

4月7日19時〜近鉄アート館 桂「小倉船」「花野(原作・川上弘美)」
言コーナー★笑福亭 生寿
ぴあ(P 500-920) t.pia.jp
ローソン(L 52265)l-tike.com 
近鉄アート館
さかいひろこworks info@sakaihirokoworks.net