落語から読み解く「昭和元禄落語心中」

NHKドラマ10「昭和元禄落語心中」。DVDが発売になりましたね。

https://www.nhk.or.jp/drama10/rakugo/

ドラマゆえ原作ストーリーを省略した部分もある一方、後述するようなドラマオリジナルの演出が特に素晴らしく、毎週見るのを楽しみにしてました。もはやクラシック(古典)の趣のある原作マンガ。石田彰山寺宏一林原めぐみといった一流の声優達による技巧の局地とも言えるアニメ版とともに、ダブル受賞をした岡田将生、山崎育三郎の健闘、八代目八雲の「色気」を描き切ったという意味でそれぞれが素晴らしい作品になったのではないでしょうか。

大演壇を迎えた本作には大きな謎が2つ残されたまま、原作が終了してます。1つは「みよ吉と助六の死の真相」、あと「信之助の父親は誰なのか」。この2つに関して、一方のみに与えられている情報の断片によって断定している感想や批評も多く(例えば「ユリイカ」内での可児洋介論文等)。それには少し、自分なりに意見をしておきたい。それは、この作品があくまで「落語世界」を描いた作品であるということから、自分なりになにか言えることはあるのではないか、少し考察をしておきたいと思い、感想を書こうと思った次第です。それは作品内で語られる古典落語一つ一つのみならず、セリフ一つから古典落語の細かい引用がなされている本作を、いち上方落語レビュワー(自称)でもある私の視点から、作品を少し考察したいと思います。といっても、自分はどうしてもネタが上方よりになってしまいがちで、江戸の古典落語はそんなに詳しくないのでお目溢しを。

※ここからは作品の最終回までのネタバレをふんだんに含んでいますので、まだ未見の方などはくれぐれも注意を!まあ、オチが分かっていても面白いのが落語の面白さだとも思っていますが・・・

地獄八景亡者の戯れ〜近日来演

ドラマ版ではカットされてしまいましたが、八代目八雲が亡くなった後、助六とともに地獄の街を徘徊するシーンがあり、そこで地獄の寄席、作中では燃えた小屋を発見します。そしてそこに亡くなったばかりの当人、「八代目八雲本日来演」の看板がかけられます。

このシーンは、落語好きなら言わずもがな、人間国宝桂米朝氏が再編纂した「地獄八景亡者の戯れ」の地獄めぐりのシーンが元ネタとなっております。このシーンでは、亡くなった名人たちはみんな亡くなっている、その豪華さを説明した後、

「寄席かてそんなもん、こっちは名人ぞろいや。うん、こないだ三遊亭円朝が十日間『牡丹燈籠』を続きでやって、よう入ったで、これは。今日の看板見てみい、並んだあるやろ、ええ。小さんかて昔の小さんやさかいな、円生に、橘家円蔵やとか、こっちが大阪落語、顔ぶれ見てみい、あれ、ええ、松鶴春団治も、みな先代や、あれ」 「なるほど、なるほど、立花家花橘、文団治、米團治文枝文三、ああ、円都、染丸、桂米朝…、もし米朝という名前で死んだ噺家はおませんが、あらまだ生きてんのと違いますか」 「あんじょう見てみいな、肩のところに近日来演と書いたある」 「…ははあ、あれもうじき死によんねやな。可哀そうにいま時分なんにもしらんとしゃべっとるやろなあ」

という、自身の名前を述べるという噺となっています。

実は、自分はこの米朝の「近日来演」の看板が取れた瞬間を見たことがあります。それは氏が亡くなった2015年、氏の息子である桂米團治が「地獄八景」を演じるのを幸運にも観ることができました。父と息子、そして師と弟子によって語り継がれる芸と噺のつながりを感じ、この瞬間を目撃したことに非常に感動しました

…が、その年、氏が地獄八景を演じた会をその後立て続けに三度遭遇し、さすがに最後は「さすがにもういい…」となってしまったのはご愛嬌

千早ふる〜みよ吉と助六の死の真相

原作の5巻、ドラマだと第六話「心中」に相当する回で、四国の旅館で菊比古と助六が二人会をした夜、助六とみよ吉夫婦が亡くなってしまいます。これについて当初、彼らの子供であった小夏はずっと八雲が殺したと恨みを抱いていました。そして、八雲が回想で語ったところによるとこれは突然の事故死であったことを述べていきます。

・・・がしかし、後にその場に居合わせた松田さんによって、実は八雲の話には嘘があり、みよ吉が死んだのには少女だった小夏が飛び出したからだということが語られます。ドラマ版だとこの話が真相のように語られていましたが、実際は一体どうだったのでしょうか。

・・・ということよりも重要なことがあります。もし仮に、松田さんの話した真相が事実だったとすると原作マンガ3巻分、ドラマでも2〜6話という実に半分を費やした「八雲の過去編」そのものが、単なる「回想」ではなくなってしまう、ということです。では何かというと、八雲によって語られた物語であり、そして語り=騙りとなっている物語世界を描き出したもの、つまり一つの落語風景であるということです。

一人の男によって語られる物語は時間とともに変化をしていきます。仮に頭の中で正確に語ったつもりであっても。また伝わるごとにその時代時代の人によってブラッシュアップされ、洗練され、また肉付けられていきます。それを師匠から弟子に伝えていく口承の系譜こそ、落語という文化の最も素晴らしくも脆い一面であります。余談ですが原作からドラマに登場しなかった人物として、作家の樋口という男がいます。彼は登場人物たちに決定的な助言を与えたり、狂言回しのように振る舞うといった原作では重要な役割をしているのですが、どうもほかのキャラクターたちに常に軽く疎まれ続け、心の内を開かないでいるような関係性を維持し続けています。これは、樋口の性格というものがあるのも一理ながら、彼が「書き残す」という仕事をしているということに大きな理由があると考えます。生き生きとした口から出た言葉をつないでいく口承に対して、書き記した言葉は確かにそのままの言葉として残り続けますが、それが書き言葉になった瞬間にそれまでことばが持っていた多くのニュアンスを失ってしまいます。それは例えばデリダが「死体」といったような代物で、それは語りを生業にしているものからすれば忌み嫌われるようなものかもしれません。歴史書なのに版を増やすことに書き換えをおこなったりしない限り

隠された「千早ふる」

八雲が語った話が「落語」であるという理由として、みよ吉が窓から落ちる瞬間に、思わず助六が「ユリエ」という芸姑であったみよ吉の本名を叫びます。その時、愛していながらそのときになって初めて彼女の本名を知る菊比古。とても悲劇的なシーンですが、実はこのエピソードは「千早ふる」という落語が元ネタになっています。

「千早振る」 百人一首をしていた娘から「千早振る神代もきかず竜田川から紅に水くぐるとは」の意味をきかれて困った男が、横丁の隠居のところへ教えてくれとやってきた。実は隠居のほうも知らないのだが…(「愛蔵版 古典落語100席」より)

「千早振る」という言葉が本来は神にかかる枕詞であることすら知らないくせに虚勢を張りたがる隠居は、この千早を女郎だといい、竜田川は川ではなく関取でこの千早という女郎に振られたのだという強引な解釈を語りだします。そして最後にこの千早は身を投げて自殺し「水くぐる」という話まで強引につないだはいいものの、

「最後の『とは』というのはなんです。とは、は」 「とは。ぐらいまけとけ」 「まからないよ。とはというのはなんだね。」 「ようく調べたら、千早の本名だ」

じつはあのシーンは、落ちといい、落ちぶれた女郎といったところといい実はとても符号の合う点が多く存在しています。(もうひとつ、落ちぶれた女郎が死ぬ話といえば作中でもなんども登場する題名の元になった「品川心中」です)方やタイトルとなっている一方でこの根多は一種無意識のように根底に仕込まれています。また、原作マンガでは太鼓の撥を菊比古が窓に向かって投げつけ、それを助六がキャッチするというシーンが小さく挿入されています。実はこのシーンも、クライマックスに菊比古が「バチが当たったのでしょう」と回想するシーンの伏線となっていて、窓から落ちる助六と、太鼓のの「バチ」がかけことばになっているという、非常に落語的な落ちがつけられています。

ドラマ化の意義〜他作品へのオマージュ

ドラマ版の白眉のシーンを問われれば、やはり石田彰氏も絶賛した第四話、ドラマオリジナルで八雲が自身の十八番となる「死神」の根多をつけてもらうシーンになるでしょう。これを境に八雲は自分の中に死神を内包し、周りの才能を食らい、人の涙をすすり自分の糧にしていく死神であると自覚していきます。それを教える柳家喬太郎の迫真に迫る演技は正直「やっぱり落語家と俳優の演じる落語は違うな」と、ドラマ化の価値をひっくりかえしかねない程の素晴らしさでしたが、それ以外にもドラマ化の意義はあります。それはなによりNHKで本作が制作されたことです。なぜなら、「昭和元禄落語心中」には他の落語をテーマにした作品へのオマージュが含まれているからです。

本作の最後、亡くなる直前の八雲に小夏は弟子入りを志願し、作家である樋口氏の新作落語を演じる女流落語家になっているという説明がされます。

この展開は小夏が当初から父、助六に憧れて落語家になりたいと思っていたが女性に落語は無理と八雲に断られていたこと、中盤で幼稚園児の前で落語を初めて演じることなどの前段あったことを含めても、多少唐突な展開であったことは否めません。しかし、それは落語を題材にした他のドラマなどを補足にすると納得できます。

NHK朝の連続テレビ小説ちりとてちん」は貫地谷しほり演じる主人公が上方落語家を目指すというストーリー。その途中で古典落語の口調が女の自分には合わないことに気づくと師匠から創作落語を演じろとアドバイスを受けます。ちなみに「創作落語」という言葉は桂文枝(三枝)が自身の新作落語を称した言葉ですので新作と意味は同じです。そして彼女は創作落語を始めるのですが、物語の終盤、自身は同じ落語家である夫を支えるために落語家を引退します。

おそらく雲田はるこ氏は、「ちりとてちん」へのオマージュないしアンサーで、21世紀の女性の生き方として、結婚出産後引退するのではなく、結婚、出産を経てから弟子入りし、落語家になるという小夏の人生を描いたのではないでしょうか。

ちなみに「ちりとてちん」の中盤、特に師匠の復帰シーンは涙なくしては見れない感動傑作になっているので未見の人はぜひご覧ください。自分は見ると必ず号泣します。

信之助の父親の謎〜粗忽長屋(主観長屋)

では最後の謎に迫ってみましょう。小夏が最後まで秘密にしていた、信之助の父親です。与太郎はかつて自分が所属していたヤクザの組長だと思っていましたが、原作では最後に樋口は先代八雲が父親である可能性を仄めかします。ドラマ版だと近親相姦を匂わせるその可能性は少しぼやかされ、直接的に言及されることはなかったのですが(一方で、みよ吉が助六とできる前に妊娠を思わせるシーンが挿入され、小夏の父親の可能性が助六ではなく若干八雲である可能性を匂わせる演出が加えられていました。)果たして、信之助の父親は一体誰だったのか?

そのヒントに一つの落語根多を紹介します。「粗忽長屋」という噺は、そそっかしい男が死体を目撃し、その死体が自分の友人であると思い、そして友人に会い、死んでいることを報告し、そして友人は自分が死んでいると説得され、自分の死体を引き取りに行くという噺です。実際の噺を聞いたことのない人が読んでもさっぱり意味がわからないとおもいますがそういう噺なのです。

この噺を立川談志は「主観」というテーマに解釈し「主観長屋」と名付けて演じました。主観の強い人物が主張をすると、相手に自身が死んだということでも信じさせることができる。それこそが落語であるという談志の解釈は今も多くの人に支持されています。ちなみに原作の参考文献で立川談志の本はなぜか同じ本が二冊書かれています。

その主観長屋をベースに考えると、私の答えはこうです「各々が信じたいように信じればいい」なんじゃそれ、と言われてしまいそうですが、一人の人生としては、自身が信じたいように信じて生きていくしかない。前述した助六の死の真相すら、松田さんが八雲氏をかばうために嘘をついた可能性もないとは言いきれません。もっというと、みよ吉は「本当は」八雲を恨んで死んだのかもしれない(みよ吉の性格からしてその可能性はあります。)登場する助六の霊すら、当時のままであったり死神であったりと一貫性なく登場しています。それぞれが自分の人生という物語を生きている以上、それを厳密に突き詰めてしまうのはひょっとしたら野暮なのかもしれません。そもそも、自身とともに落語を葬ろうとした八雲が弟子をとったのは、特に一貫した考えのあることではなくちょっとした「出来心」でした。信之助の父親が八雲だったとして、その動機も決して考えあってのことではなかったでしょう。しかし、結果として落語はそこから残り、八雲自身も残っていくことになりました。「やめとこう、また夢になるといけねえ」といって現在をそのまま肯定することも一つの生き方かもしれません。これは高輪ゲートウェイ、もとい「芝浜」のセリフですが。

可児洋介氏は父親を八雲であると想定し、それを「ジョジョの奇妙な冒険」のような血の物語の系譜として解釈していましたが、自分はそうではなく、雲田はるこ氏を少女漫画の系譜から見つめたい。例えば、大島弓子「秋日子かく語りき」では、事故で亡くなった中年女性の霊が女子高生に乗り移ったというストーリーです。しかし最後、本当にそれは中年女性の霊であったのか、女子高生が一種のヒステリー状態でそう思い込んでいたのかが曖昧なまま、ストーリーは収束します。そういった「主観の系譜」にこそ、雲田はるこ氏は位置すべきではないでしょうか。

 

さいごに

本作で最後に語られる「こんないいものがなくなるわけない」というセリフは、おそらくは米朝人間国宝に認定されたときに語った言葉のオマージュと思われますが、しかしそれはまた作者もそうであろうし、そして自分も全く同じ気持ちです。「漫画と落語のある国に生まれて良かった」という作者の最後のコメントにまた、「昭和元禄落語心中も読める」ことに心から感謝し、レビューを終えたいと思います。