なつぞらがなんかモヤモヤする理由

第100回目となるNHK連続テレビ小説なつぞら」。広瀬すず演じる戦災孤児だった奥原なつが北海道へ引き取られ、その後東京でアニメータとして活動する姿を描いたドラマで、視聴率も20%を前後して高い安定した数字をキープしている話題作・・・のはずなんですが、みなさん楽しんで見てますか?正直ネットの話題でいえば、視聴率が半分以下の「いだてん」に遠く及びません。

 

自分も毎回欠かさずに見てるのですが、はっきり言って面白い!とは言いにくい。じゃあつまらないか?といえば、それでも毎回みてるのだからそうとも言い切れない。なんだかんだ言っても毎回一つはひっかかる部分もなくはないし。

 

しかしこの「なくはない」というものが厄介で、ドラマの端々にあるアドホックな要素、それは例えば高畑勲宮崎駿がいたジブリの前史的な要素であったりするのですが、それが本筋とうまく絡んでいるかというとそうでもない。

 

そもそも本筋、といえるメインストーリーがすごくとっちらかっていて、やっとなつがアニメに力を入れ始めた時期になって雪次郎の劇団に入るエピソードが始まったり、しかもその話の「泣かせ」が大抵親子人情もので、それはいいけど、それやるのに別にそこまでドラマの展開とうまく噛み合ってないというか、ストーリーの必然としてというよりは愁嘆場をやらせるためにわざわざ北海道勢を東京に呼びつけるという本末転倒に見えてしまう箇所が多々あります。ようやく最終週になって千遥との関係がそことようやく噛み合ってきたという。(でも割とフックとしては「料理」のほうが比重が多いような)そんないきあたりばったりの展開でもなんとなく見てしまうのは、ひとえにゲスト出演している山口智子松嶋菜々子らの歴代ヒロインや「北海道の貧乏農家なのに髪にワックスつけたらいかんやろ」「高畑勲はそんな脚長ないやろ」というツッコミを凌駕するイケメン勢たちによる華で「もたせている」というのが実相でしょう。

 

結局そういった空洞化するドラマになってしまったのは一体なぜなのか。おそらくそれは当初考えていたメインテーマが諸事情によるものか後退してしまったことによる理由が大きいのではないでしょうか。ではそのメインテーマとは一体なにか、自分なりに語ってみましょう。

 

なつぞらは「協働」のドラマである

本作をずっと貫いているテーマは、自分はずばり「協働」であると考えます。一人一人のエゴを中心にするのではなく、その場所になんらかの貢献をすること。それが今作を常に貫いています。なつが北海道の天陽くん(モデルは神田日勝)と気持ちが通じ合っていても結ばれなかったのは、彼がなつと同じ芸術家ではありつつもあくまでも「個人」としての芸術を追求する「アーティスト」だったからであると思います。

 

協働としての酪農

さいしょなつは北海道でおじいちゃんとともに酪農の仕事を手伝います。まず牧場という場所こそ、集団を作って労働生産消費を一体化する共同体の元祖と言ってもいい存在です。この集まりは働いている人々だけではなく、牛や馬などの家畜を含んだひとつながりの大きな集まりだと言っていいでしょう。物語が進むにつれ、それは更に「農協」としてすべての酪農家たちがつながっていく大きな集団になっていきます。

協働としての演劇

奥原なつは高校時代、突然先生にスカウトされて演劇部に入ります。この「地域演劇」というのがまず、アニメーターとして「動き」を考えるきっかけだけではなく重要な点です。特にあるコミュニティによって行われる「地域演劇」は、興行的なものよりもむしろその地域の人々を束ねるためのシンボリックな、祝祭的な要素をもつものです。そこでは、人々が場でそれぞれの「役割」を与えられ、その役割を完遂することで作品全体を作り上げていくという共同体のロジックがそのまま組み込まれています。また、ある種のメッセージを「演劇」という形式を使って組み込むというのも一つの啓蒙活動としてずっと伝統的にあるものです。それらの運動の一つが神山蘭子が率いている「新劇」です。新劇は海外の戯曲をとおして新たな時代を生きる人間モデルを提供する、非常に近代啓蒙側面の強い翻訳運動でした。ドラマでも最初に演じられたイプセン「人形の家」は大富豪と結婚した女性が、旦那の庇護ではなく自分の力によって立つことを決断するプレフェミニズムといっても良いような作品でした。

 

協働としてのアニメ

前段でも触れましたが、一人で完結したものづくりができる絵画(これにアイヌのおじさんが掘っていた彫刻を加えてもいいかもしれません)に比べ、動きの一つ一つを絵で描かないといけないアニメーションという作業は基本一人では完結しえません。それ故なつは仲間とともに作品をつくりだします。そして、なつが選んだ結婚相手もその場で演出をしていた一久(高畑勲がモデル)でした。そしてこの「酪農・演劇・アニメーション」という3つの協働要素が重なる作品「アルプスの少女ハイジ」をつくることでこれら3つは結実していきます。

 

協働から労働組合

そして協働という場所では、労働者たちがよりよい条件を求めて経営者もしくは使役者側と対立していきます。例えば農協は牛乳を安く買い叩く乳業メーカーとの交渉のためでしたし、また東洋動画のモデルとなった東映動画も、現実は動画部の労働組合と経営者がものすごい、日本労働史に残るくらいの対決をした結果、実際の高畑宮崎たちは独立しスタジオジブリを設立することになりました。今作が東映動画がモデルということでここをどこまで描くんだ?と思っていたら案外割とソフトでしたね。

 

オミットされた左翼要素

そして言うまでもないことですが団体交渉、労働運動になってくるとその理論的根拠はマルクス主義になっていきます。そして、残念ならが本作でカットされてしまったのもおそらくこの「左翼色をNHKで出さない」というNGが入ったためでしょう。さすがに前作「まんぷく」でもカップヌードルを出したのにあさま山荘が登場しなかっただけはあります。実は農協や東洋動画の子育てに関する争議などの他にも、そういった要素は端々に残ってました。例えば山口智子が経営していたおでん屋「赤い風車」あそこでみんなでフォークダンスを踊るシーンというのが半ば唐突に挿入されましたが、あれにも本当はちゃんと意味があります。もちろん「赤い」というのもそうですが、あそこで戸田恵子が歌ったロシア民謡「カチューシャの花」あれは60年代の左翼運動の代表「うたごえ運動」の主要なレパートリーの一つでした。そしてもちろんフォークダンスもそういった運動にとりいれられたものの一つです。見る人が見ればあそこは「ああ、ここは本来は歌っているのはロシア民謡ではなくてインターナショナルで、これはフォークダンスではなくてみんなでシュプレヒコールを上げているのだな」と思って見たりすることができるシーンになっているのです。さすがにナレーションをしている内村光良が「NHKですから」と言ったわけではないでしょうが、やはり親方日の丸の国営放送であります。作中で「ヘンゼルとグレーテル」に「これは社会主義メッセージじゃないの?」と難癖をつけられお蔵入りにされてしまうというエピソードがありましたが、それは60年代の日本だからなのではなく、この現代においても続いている、ということなのでしょう。

 

勝手な妄想「左翼色がカットされなかったなつぞら

最後に、少し妄想を描いて終わりたいと思います。もし、そういった左翼要素のカットされなかったなつぞらだったら本来どういうストーリーになっていたか?

おそらく雪次郎は赤い星座を退団した後、実家のお菓子屋を継がず、若手演劇人たちとともに新しい劇団を旗揚げします。そしてそこに現れたリーダー、多分唐山あたりの名前で登場する人のもと、劇場以外の場所での演劇をテントを立てたり、市街劇をしたりで活動していきます(新宿アングラ文化の流れ)。

そしてなつはアニメーションの仕事が舞い込みます。それは、漫画が世間で大ブームになっていたボクシング漫画「あさってのジョン」でした。そして、ジョンのライバルキャラが亡くなるとなんと実際に葬儀が行われることに。それの旗振り役を努めたのはなんと雪次郎でした。そして、そのときにニュースでハイジャック事件が起こります。「われわれはあさってのジョンである」と犯行声明を上げた男、実はそれは夕美子がかつて付き合っていたジャズ評論家志望の男、高山昭治でした。かれはそのまま運動に没頭していたのです…

 

なんて話が朝ドラをみれたかもしれません。あと一周わずか、最終回はどうなっていくんでしょうか、みなさん楽しみですね!

さいごに告知

10月5日に京都、出町座でイベントを行います!

https://demachiza.com/event/5022