木ノ下歌舞伎 心中天の網島 リクリエーション版

心中天の網島 リクリエーション版

近松門左衛門

監修・補綴|木ノ下裕一

演出・作詞・音楽|糸井幸之介[FUKAIPRODUCE羽衣]

ロームシアター京都 2017年11月11日

reviewed by神野龍一

 

木ノ下裕一率いる「木ノ下歌舞伎」は演目ごとに舞台で活動する演出家と組み、歌舞伎の古典を題材にしつつも、そこに現代的な要素や解釈を含ませつつ、歌舞伎を現代に「再演」していくプロジェクト。そして今回の「心中天の網島」は2015年にアトリエ劇研で初演されたものの「再演(リクリエーション)」となる。木ノ下裕一は木ノ下歌舞伎を始めた動機として「古典」と「現代」の再接続を目指している、ということを語っている。明治に海外舞台の翻訳として始まった近代演劇は、それまで日本にあった歌舞伎や能などの演劇と断絶したまま現在まで続いている。それを再び組み込もうという試み*である。

「再演」と「現代化」

古典歌舞伎を現代劇の俳優が演じる。それが単純な「現代化」ではないことがこの木ノ下歌舞伎のプロジェクトの肝心なところの一つで、「今様に変えること」と同じように「変えないこと」というのも重要な点である。例えば「心中〜」を題材にした場合、遊女であった「小春」は現代化して風俗嬢になっているが、例えば、結婚を誓う「起請」はそのまま変更なく通用している。神仏に誓うという形で書かれた起請が当時どのように重要視されていたか、また一方で重要視されていなかったのか、江戸の当時の宗教観の変遷から個人個人の心持ちを含めて論じるにはあまりにも寄り道がすぎるのでここでは言わないまでも、例えば落語の「三枚起請」などをみるとそのグラデーションはかなり振り幅があったように思える。

たとえばこれを現代化しようとして「婚姻届」のようなもので代用した瞬間に、この古典演目にあった重層性が消え失せ、途端に生臭いものになってしまうだろう。単純な「現代化」もしくは「リアリズム化」というのはとかく古典が今まで永らえてきた滋養を、鮮度という尺度であっという間に陳腐化してしまうことになりかねない。

(ちなみに三枚起請を現代化した「タイガー&ドラゴン」では起請を「タトゥー」という形で表現していた)

「心中天の網島」は「曽根崎心中」によって世話物を創設、巷に心中ブームを巻き起こした近松門左衛門の最後の心中物。作品は冒頭から風俗嬢の小春に入れあげて身を持ち崩した治兵衛が小春に心中を持ちかけるところからストーリーが進展していく。最初の心中物であった曽根崎とは違い、「心中」がすでに存在している世界で、むしろ周辺人物は二人を心中させないよう、させないように妨害をしていく。それはさながら心中ものを作り出し、現実にも若い男女が身を投げる事件が急増したという「心中ブーム」を起こしてしまった作者の罪滅ぼしの気持ちもあるのだろうか。二人を遠ざける者、別れさせようとする者、また身請けさせようとする者など。しかしそれらの努力は虚しく、全ては水泡に帰す。結局二人は心中へ天満の橋を渡り世を去ってしまう…

 

どうしても「ここをどう表現したか」という点に注目しがちだった初演に比べて再演を鑑賞した結果、すんなりと作品のドラマの中に入っていくことができ、最後の心中は感涙さえしてしまった。この作品の中で破滅へと進んでいく200年前の治兵衛の軽薄さが、そのまま現代での例えば「闇金ウシジマくん」のような作品と同じように感じることができた。彼の行動原理の軽さ、何も考えてなさ、言ってしまえばダサさすべてが現代にまで地続きなものとしてつながっていること。好きなものが子供の頃から変わらずカレーで、棚にあるCDがミスチル、サザン、ドリカムだけでしかも全てベストアルバムというあまりにもな「中身の無さ」がしかしたまらなく愛おしい。そしておそらく、これこそが日本人なのだ。今、治兵衛小春の心中した場所の記念碑の横にはラブホテルが建っているらしいが、なるほど、現代にいたらラブホテルの寄せ書きノートに書き込んでそうな人たちである。

 

「少し道を外せば一寸先は闇」といった世界を表現するために初演は平均台を組み合わせた蜘蛛の巣のような舞台上を俳優が動き回るという趣向だったが、今回はセットが刷新され、数カ所穴が空いた蓮根のようなセットとなった。それにより前回よりも俳優たちは動きやすくなっていたのに加え、極楽の蓮の花の下である世間の出来事であることを強く感じさせる。

 

再演となって新たに加わった俳優も素晴らしく、山内健司の老獪さや、伊東茄那の存在感の若さなどもプラスになっていた。歌についてはすこし伊東は覚束ないところもあったが、それはむしろ他の俳優陣の歌が、再演ということもあり達者過ぎたのかもしれない。初演時は西田夏奈子に引っ張られるようだった箇所も再演時には全員が同じ水準で歌っていたのだから。むしろここまで歌えるようになっていたら、コーラスワークをもっと工夫しても良かったのかもしれない。

 

そして同時に感じたのは、10年目に入った木ノ下歌舞伎の「強度」だ。明らかに初回より面白くなっている木ノ下歌舞伎の底力に、この演目をまた観たい、と強く思わせるものがあった。そして、自分が常々思っていた疑問の回答を作品を通じて得た気がした。

 

それは、「今の若者たちにも歌舞伎の楽しさを知ってもらいたい」と語る木ノ下裕一氏に感じていた疑問だった。それは確かに素晴らしい。しかし、もし全ての人が歌舞伎を観ることのできるリテラシーを得てしまったとき、その啓蒙運動であった木ノ下歌舞伎はどうするのか?という問いだった。おそらく答えはこうだろう。「木ノ下歌舞伎をやり続ける」実際、歌舞伎「勧進帳」があっても能の「安宅」は存在しているように、木ノ下歌舞伎「勧進帳」がそれぞれ存在する。そしてむしろその後こそが木ノ下歌舞伎の独自性を本当に理解できるときなのだと。

 

3月1〜4日まで、 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオで木ノ下歌舞伎「勧進帳」が上演されています。

*余談ですがこのサイトで書いている「金色夜叉」はその問題意識を組み入れて日本の文学史を裏縫いしていこうという連載になっています。みんなに何やっているかわかんないと言われがちですが