小沢健二「流動体について」を読み解く by神野龍一

2月22日にリリースされた小沢健二の新曲「流動体について」は発表されるやいなや多くの人を戸惑わせました。19年ぶり、前日youtubeで発表という突然のシングルリリース、CDのみの販売で配信なしというまるで90年台当時、NYへ飛び立った直後のようなスタイルでもって発表された新曲は、大きな歓待とオリコン2位という快挙を成し遂げつつ、多くのリスナーは未だにこの曲に対して困惑を続けているのではないのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=z6nTSmftb08

しかし、小沢健二の音楽活動は昔からそうでした。アンファンテリブル(おそるべき子供たち)として現れたフリッパーズ・ギターを解散してからの沈黙、そしてソロ「犬は吠えるがキャラバンは進む」から現在に至るまで、リスナーを最初にビックリ戸惑わせ、しばらくしてからその意味がわかってくるという遅効性のインパクトを与え続けています。リリース時「今夜はブギーバック」が後々まで日本のある文化側面を代表する曲になるとだれが思っていたでしょう。2015年ceroの「obscure ride」がリリースされ、冒頭で「Contemporary Eclectic Replica Orchestra」という歌詞を聴いてようやく「ああ、小沢健二の2003年に出たアルバム『eclectic』はそういうことだったのか」というのが腑に落ちる。このタイムラグ、実に10年以上。しかしだからこそ未だに根強いファンがいるどころか、NYに旅立ってからほとんど目立った活動をしていなかったにもかかわらず、さらに新規のリスナーを獲得し続けているのでしょう。

今回はリリースされた本作について、小沢健二のリアルタイム世代ではない85年生まれ、決してそこまで小沢健二について詳しいわけではない筆者が、彼の活動およびその周辺などを眺めながら本作「流動体について」を読解するという仮説です。一体彼は本作で、何を言いたいのか?タイトルの「流動体」とは?「平行世界」とは?そしてなぜ「カルピス」を飲むのか?そして最後に彼はサイトで「裏切り」を口にしたのか。順を追って述べていきます。

楽曲について

歌詞の中のストーリーの概略はこうです。「1番:飛行機で羽田へと着陸し、音楽が流れ、その時もしも違う人生を選んでいたら?ということを思い浮かべる、そしてカルピスを飲む。2番:港区をドライブしながら昔の恋人の家の近くを通り、彼女を選んだ場合の人生を思う。そしてカルピスを飲む」(書いて思い出しましたが、一番は村上春樹「ノルウェイの森」に似てますね。2番は東浩紀クォンタム・ファミリーズ」っぽさもあります)

シンプルな8ビートのリズムのドラムを下敷きにしたロックンロールのビートで作られたこの曲は、2016年のライブツアーで発表されたのを聴いたときの印象は正直、「発表された他の曲に比べてシンプルで随分地味だなあ」というものでした。しかし、CDを購入し、流麗なストリングスが付いた本作を聴くと、本作が小沢健二のソフトランディングのための楽曲だったということがわかり、印象が一転しました。イントロのストリングスはまさに、小沢健二が最後にリリースした楽曲「ある光」(厳密にはラストシングルは「春にして君を想う」ですが当作にもカップリングとして「ある光」が収録されています)の続編であり、「ある光」が日本をテイク・オフし「JFKを追」ってNYへと飛び立つことを歌った歌であったことに対し、こちらは羽田へ上陸した、つまり堂々とした帰還宣言をした楽曲だということです。それではこの曲について踏み込んでいきましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=I0hDOnrOLgk

タイトル「流動体について」とは?小沢健二の過去作から

はたして「流動体」とはなんでしょうか。デジタル大辞林には「流体」の同意語として「外力に対して容易に形を変える性質のもの」とあります。この変化するもの、変化しうるものというテーマは常に小沢健二が歌う基本テーマになっており、ソロデビュー作「犬は吠えるがキャラバンは進む」のセルフライナーノーツ(現在は削除され「dogs」と改題)でも同じようなことを言及されています。

まず僕が思っていたのは、熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。

おそらく「流動体」とは、そういった「一定でいれないもの、変わらずにはいられないもの」を指し示したもの、そしてそれは時間によって影響されてしまうすべてのこと。また、福岡伸一が「生物と無生物のあいだ」で語ったような「動的均衡」、食べたものの分子を取り込みながら細胞を刷新し、常に変化しながら、変化するという形で残り続ける生命活動そのもの、つまり「自分の生(まさにLife!)」であろうと僕は考えます。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし(方丈記)の無常観。「ユースの終わりを痛みとともに」知っていた小沢健二はそれこそデビュー当時から、自身の変化についての痛みを唄い続けていました。フリッパーズ時代は「抗い」として。そしてソロ以降は「肯定」として。タモリが激賞したことでも知られる「さよならなんて云えないよ」のフレーズ

左のカーブを曲がると光る海が見えてくる。僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも!

は、ランボーの「見たんだ!何を?永遠を!海に溶けていく太陽!」にも似た瞬間瞬間の輝きへの肯定と、それが離れていくことの痛みを捉えた名フレーズだと思います。

「平行世界」とは?周辺関係から読み解く

果たして、「平行世界」とはなにか?それを本作に参加しているミュージシャン、その周辺の関係から読み解いてみましょう。本作には、コーラスとしてハナレグミ永積タカシの他、シンガーソングライターである一十三十一が参加しています。一十三十一が以前他のアーティストにコーラス参加したのはceroの「Orphans」以来ということです。そこで、まずこの「Orphans」の話からしてみます。なぜなら、この「Orphans」こそがまさに「平行世界」を歌った歌として、本作とも深い関わりを持っていると考えるからです。

https://www.youtube.com/watch?v=c_SLGBJgDNE

歌詞の概要はこうです、学校をサボった男女2人がバイクで海に行く、そこで2人は「別の世界では2人は兄妹だったのかもしれない」と思う。「平行世界」とはこういう「もし〜だったら」という仮説が存在している世界が実在すると考えた場合の、自身の人生における無限の分岐点を想像し、また現在の自分もまたその無限の選択肢の一つとして理解する態度に他なりません。そして、「Orphans」における一十三十一のコーラスは「別の世界」という言葉が出たときに現れます。ここでの一十三十一の声は「別の世界からの声」つまり平行世界からの声であると僕は解釈しています。そもそも「コーラス」は洞窟や聖堂などで合唱をしていた修道士が、反響した音の中から生まれた倍音の声を「天使の声」として理解したところから始まっており、このコーラスもまた「反響する他者の声」であります。また、この「Orphans」のカップリングには小沢健二の「Eclectic」の曲「一つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」のカバーが収録されており、相互のかなり強い影響関係を感じさせます。さらに本作「流動体について」でも一十三十一のコーラスの歌い出しは「もしも」であり、この楽曲における一十三十一の声も同じ「平行世界からの声」という役割を背負ってると考えてられます。

なぜ「カルピス」なのか?彼の活動から読み解く

そして最大の謎、「なぜカルピスを飲むのか?」です。本作では歌の最後に必ずカルピスが言及されます。このカルピスは一体何を意味しているのか?これを読み解くために、先ほどのテーマであった「平行世界」的な想像力が鍵となります。つまり、「もしも飲んでいるのがカルピスでなかったのなら?」と想像、もといソーゾーしてみましょう。例えばここで飲むのが他のドリンク、例えば「コカ・コーラ」だったら?コカ・コーラを飲む小沢健二。みなさん想像できますか?「アメリカ」や「グローバリズム」「ロックンロール」を代表し、日本語ロックの嚆矢となったはっぴいえんど「はいからはくち」でも「こかこおら」とひらがなで歌われたコカ・コーラ、もしこれを歌っていたらそれはあまりにも意味が多層的過ぎます。これはほとんど「裏読み」に近い読み方ですが、少なくとも現在の小沢健二は「コカ・コーラを飲んでいない」こと、それが重要なのだと思います。現在彼が反グローバリズムについての活動を行っていることは知られていることですし、また発売日に載った朝日新聞の広告には食パンなどを指して「日本のガラパゴス文化」を褒めています。そういった考えの末、日本でしか販売されていない「カルピス」(厳密にはアメリカでも販売されていますが、「カルピコ」と名前が変えられています)を取り上げたのだと思います。グローバリズムではなくガラパゴスへ。

*同じ「コカ・コーラではない 」ことを作品で提示した作家にクエンティン・タランティーノがいます。同じ90年代を代表するクリエイターの一人であり、引用、オマージュに溢れた作品作りを共通して行う氏は代表作「パルプ・フィクション」においてサミュエル・L・ジャクソンは突然「カフナ・バーガー」と「スプライト」について饒舌に語りだします。あまりにも本筋と無関係なこのシークエンスを理解するにもこの考えは適用できます。この台詞は「飲んでいるがコカ・コーラではなく、食べているのがマクドナルドではない」ということで、それまでの映画でステルスマーケティングによって不必要なまで登場する2つの「グローバリズム」商品についての痛切な皮肉であったと考えることができるように思います。*

想像を続けます。もしかしたら、この「流動体について」という楽曲自体が、「あのまま活動を続けていたらいたはずの自分」としてのメッセージなのではないでしょうか。そして、突然の来日に加えたゴールデンタイムのニュース番組や音楽番組などの怒涛のテレビ出演などがまさにその「もしも」の仮説の検証であったとしたら?そう考えるとアメリカへ再度飛び立った後、公式サイトに書かれた、「僕は今回『流動体/神秘的』を良いと思ったような人たちを、恐ろしい言葉ですが、一回裏切ってしまったのだと思います」という言葉が、リリースされた楽曲を素直に購入し、テレビ出演をあまりに素直に「おかえり小沢くん」と喜んでしまった我々への言葉として、少し腑に落ちる気がします。

若さの中で、「そのままでいたい」と防衛的に思っていた若者が、「ヘッド博士の世界塔」という自分の好きなものだけで作り上げた迷宮のようなアルバムを組み上げた後に世間の前から消え、再び一人で現れたとき、後ろを全く振り返らずに、傷つくことを覚悟して時代の矢面に立った。それは一切ブレーキペダルを踏まずにアクセルを蒸し続けるような一種の「蛮勇」であり、ガソリンが尽きるまで走り続けるドラッグレースだった。そうして刀折れ矢尽くまで唄い続けた彼の姿は、今振り返ると日本の90年代の最後の明るさとその終わりの刹那を体現していたように思います。そこからNYへ飛び立ち、世界を旅してきた彼が見たものとは一体何なのか。そしてこれからの彼が何を伝えようとしているのか。今回の「流動体について」の解釈もあくまで個人的な仮説です。「流動体について」の歌っている多くのことが「ああ、そういうことだったのか」と本当に腑に落ちるのは、また10年以上先なのかもしれません。

 

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